落合の俳壇

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地理的条件もあって落合の俳壇は中津川との交流が密であり、月次会など、お互いに往き来していた様子を現存の文献から知ることができる。落合では、享和頃塚田元相を中心とする蟠龍社中というものがあったらしく、享和元年(一八〇一)三月八日に医王寺再建の奉納額が奉献されている。連衆は田亀(塚田元相)、蘭二(同弥左衛門)、午睡(高福寺啓誉)、君甫(鈴木利左衛門)、華光(加納小左衛門)、三橋(井口善助)、淳亀(馬籠宿金丸玄卓)、芝丘(鈴木喜市良)の八名で、半歌仙一巻および探題各一句を献じ、苗木の半素坊と西濃の周路がそれぞれ一句を加えている。

Ⅶ-24 医王寺再建奉納俳諧額(落合・医王寺)

 君甫は鈴木利左衛門由清と称し、酒造業泉屋五代目で俳号を三保園君甫という。文政二年(一八一九)六七歳で没した。その七七忌に嗣子の素涼によって「円誉融徹居士追善集」が編まれ、巴文・互融坊・霞酔・梅子・了作・由甫・幾之坊・霍翅・竹甫・古狂・三蝶・寄遊・才我・巴石・其霍・素巽・其悠・塢芹・友左坊・文兮・露玉・順古・文社・和華坊・一指・素涼が献句している(落合公民館蔵)。
 天保期に入ると、素涼(嵩左坊)が落合俳壇の中核となって活躍し、その勢力は木曽谷にまで及ぶようになった。