嵩左坊

1534 ~ 1536 / 1729ページ
泉屋六代目、鈴木利左衛門清茂と称し、君甫の子として安永二年(一七七三)に生れた。妹婿由甫(七代目鈴木由澄)に家督を譲って曹麓(そうろく)と名乗り、雅号素涼の外嵩左坊(すうさぼう)・桂庵・咸蔭亭の別号を持ち、俳歌に長じた。互融坊一周忌の行なわれた天保三年(一八三二)六月、友左坊は湖友を伴って落合に来遊し、雅会を催している。
 
 うち解けた遊ひ楽もし氷室の日  友左宗師
  氷室の日とて味ひも無味      素 涼
 
以下湖友・由甫・左逸・嘯和・錦河・廬玉・琴之・三志・居卜・虎睡・至交・素蘭・霞悠・豊路・薫宇の一七名で二廻り、揚げ花を宗師と素涼で歌仙行を物している。素涼はこの年六〇歳となり、余生を俳諧一途に送るため隠居し、利兵衛と改名している。
 天保六年暮素涼は嵩左坊の坊号を許され、中津川の霞外坊とならんで東美濃の宗匠の一人としての地盤を確立した。
 
  (前書略)
 心尽しをまっていたたく頭巾かな  桂庵主人
 待て居るこころもおかしはつ時雨  雪香園老主友左坊
 
 なお、この年の秋十八条村の幾昔を娘愛の婿に迎えた。幾昔は後に落合宗匠の文台を継承した人である。天保七年(一八三六)一月中旬、嵩左坊は奥羽行脚に門出したが、事情があって一旦帰郷し、改めて三月一四日落合発、越後・奥羽・江戸を経て木曽路を曳杖し、九月帰郷した。この旅行を記念して「花能雪集」一巻が板行されている(落合公民館蔵)。
[花能雪集]出版年不詳、餞章友左坊と逸歩仙、つぎに首途自賛、<長閑さや連も影添ふ阿弥陀堂 嵩左坊>。餞別句や歌仙行は地名別に配列し、曽井・芥見・太田・小里・神篦・明知・日吉・藤村・岩城下・大井・中津川・苗城下・越後(中ノ島・今町)・与坂城下・中野・大面他・裏館・三条・新潟・中条・黒川・関・東武下谷・信陽福嶋・上松・萩原・須原・野尻・三留野・妻籠・湯舟沢・山口・田立と、各地で雅会を催し、門流の普及宣伝に尽瘁している。木曽福島においては山村風兆の歓迎をうけ、その後の木曽谷巡杖のきっかけとなった。

Ⅶ-26 花能雪集(落合公民館)

 嵩左坊は北越行脚をすまし無事に故郷ニ向ふと聞へけれはその意を祝して
 棧や蔦もにしきを錺(かざ)る今  白鶴楼老君
  伏しつ仰きつ帰るさの月       嵩 左
 
 嘉永六年(一八五三)嵩左坊は蕉翁一六〇回忌雅会を催し、医王寺に梅塚、<梅が香にのっと日の出る山路かな>を建立し、安政三年(一八五六)一〇月四日八四歳で没している。
 嵩左坊については「落合郷土史」に詳しいので参考になろう。なお落合公民館には「円誉融徹居士追善集」、「桃の宴」、「稲荷祭」、「花雪集」(毛筆のもの二冊と印刷本花能雪集と計三冊)、「堂都能者類」(この表紙には別の題名があったようであるがはがれている)など嵩左坊の著作物が保存されている。

Ⅶ-25 嵩左坊墓(落合・高福寺)


Ⅶ-27 医王寺 梅塚


Ⅶ-28 友左坊扇面(市岡正兄氏蔵)