塚あらた新に恩をおくる夏 奚花坊 | |
成しねかいもみち茂る蔭 | 古 狂 |
なく時は狐も占(うら)につかわれて | 嵩 左 |
兎角してつひ夜の明にけり | 幾 昔 |
相宿の衆はお先へと月の笠 | 嘯 和 |
鯛やゝきに飽汐湯治(あくしおとうし) | 豊 路 |
暦では寸にたらすもなかいこと | 東 烏 |
大黒天の明し赫々(あかあか) | 寛 三 |
念頃(ねんころ)に尋る家をお(ママ)しへくれ | 兎 乙 |
七つか八つか竹馬の若子(わこ) | 五 調 |
さく花の中に桜の花は華 | 至 徳 |
長閑なれとて名も屛風山 | 馬 風 |
戸一枚なき垣生(かきふ)にもすみ馴て | 三 子里 融ヒ ヒ |
鸜鵡返しの歌の面白 | 霞 悠 |
朔日は何の神ても蒙る日 | 雄 乕 |
またはつものの雪のちら/\ | 峨 裳 |
路次下駄に禿(かむろ)か肩を仮の杖 | 嵐 雨 |
酒がさせますわやく□ □ □ □ (不明) | 其 調 |
名月は異国まてももて囃し | 露 文 |
なみの面も澄んて岑閑(きんかん) | 斗 南 |
供揃出来て野袴召させまし | 君 貞 |
時計は奴ふるか商はい | 露時雨 |
千代八千代かきりはあらし徳の華 | 鬼 笑 |
けふや霞と昇る焼香 | 士 中 |
右たん歌一巻 (大黒屋日記) |
正式俳諧はもとより略式でも時間短縮のため前日までに巻くのが普通で、重だった人は前日に来て句を練っておき、当日参加者を作者名とし割り振り、特に第三句と花、月、揚げ句の花の作者には長老を当てるのが定めとされている。したがって第三句は嵩左坊、花の句を馬籠本陣島崎重韶の至徳が、月の句は露文の号をもつ中津川宿本陣の市岡殷政が揚げ花は鬼笑と主人の士中が定位している。終章は風兆が認め、(前書略)<咲き残りの花を幸ひ手向とは 八十五齢風兆叟人>の手向吟で飾っている。これは翌年板行されたがまだ発見されていない。
Ⅶ-29 新茶屋 翁塚
[東烏]〓七代目間杢右衛門復矩(またのり)といい、旭亭と号した。信州飯田より先代史仲の娘婿として家を継いだが、俳諧に凝り、史仲の俳諧を中断させたほどの乱費をなし、嘉永三年(一八五〇)六四歳で没した。
[兎乙]間吉右衛門方矩(まさのり)、通称忠七といい、安政三年(一八五六)八月に起きた牛方事件の十八屋忠七であり、円庵と号し、元治元年(一八六四)六月、<さま/\のをはりある世や夏枯竹>と辞世を残して没した。
[里融]山半(〓)十八屋四代目間半兵衛矩普(のりひろ)といい、別号竹肖舎。妻は大脇士中の妹らい、秀矩はその嗣子である。短歌行に書かれたヒヒは、三子(三留野人 甲々庵)は参会したが里融は不参のためどちらでもよいという記号である。里融は句碑開眼後の天保一四年(一八四三)五月二九日四九歳で没している。その辞世句<とらが雨のむかししれとや此別れ>は北野打越墓地の碑に彫られている。
Ⅶ-30 里融句碑(打越墓地)
とらが雨のむかししれとや此別れ>さま/\のをはりある世や夏枯竹>咲き残りの花を幸ひ手向とは 八十五齢風兆叟人>送られつ送りつ果は木曽の穐(秋)>