安政三丙辰年(一八五六)板行の「すゝ里いし」は三世花実坊から四世馬風へ文台が継承された事情を物語っている。
(前書略)
しほひかぬ海やつたへん硯いし 花実坊
道に恵みもあさからぬ春 馬 風
握りたるわらひの拳くつろきて 桐 蔭
けふりのやうにくものちる也 四 六
以下、原洲・浮月・左涼・可聴・喜遊・そい・兎乙・風獅・甫水・桂父・至雄・是住・半米・時中・蕪言・すミ・竹巴・成美・幾昔・輅郷で短歌行を巻き、(中略)「このはる みとり庵の文台を授与あらんことを花実老雅の囁語あるより、今さらおもひみれは峯川もしらぬふもと遊日(あそび)に二十年の春をむなしうせし身には 持ちあくみさうなりおもき梅の枝 白桐花園馬風」と責任の重大さを述べ、終章は奚花坊が<つたふなかれやわらく魚と水てら路>と収めている(落合公民館蔵)。
Ⅶ-31 すゝ里いし(落合公民館蔵)
幕末騒乱の時代においては月次会も消長をくり返しつつ、時には各地の情報をきく方便も手伝って次第に活気を呈してきた。文久四年(一八六四)の初会は正月八日、故狂(十八屋角八、二代目間為之助古矩)宅で開催し、故狂・馬風・四六・梅州・蕪言・巴水・三楽・風獅・兎乙・成美・是住・村路・文馳・喜遊・幾昔・萬里・時中・之人・露文・九花・透有・佳涼・けい・竹堂・半米ら二五名で歌仙行を巻いている。
同年五月より三か月間、馬風は上洛して国事に奔走し、岩倉具視の知遇をうけ、<美濃路なる山時鳥おもひきや遠く都におとつれんとは 具視>の一首を賜わっている。この間の行動は「元治紀行」に詳しい。七月一八日帰郷の途につくや間もなく京師は兵馬の巷と化したとて<秋風にみたれ合たり萩すゝき>と詠じ、奈良においては、<菜の花やなみたこほるゝ大内裏>、吉野では、<よしの山崩るゝはかりの桜散る>の句をのこし、勤王俳人としての風格躍如たるものがある。
Ⅶ-32 馬風句碑(旭ヶ丘)
よしの山崩るゝはかりの桜散る>菜の花やなみたこほるゝ大内裏>秋風にみたれ合たり萩すゝき>美濃路なる山時鳥おもひきや遠く都におとつれんとは 具視>つたふなかれやわらく魚と水てら路>