元治元年(一八六四)八月一五日、京都からの帰路中津川に立寄った横田藤四郎祈綱を迎えて馬風は、「横田大兄が郷里帰駕をとふて」と前書して、<なつかしき都の便きくのけふ>、袖をわかつとき再会を誓ひて<来る年はまた三日月に名残かな>、東西に再会を約して<脚かるもまた来よ桜もみち狩>の句を贈っており、片隅に横田藤三郎討死と註記してある。こうした親交が三か月後に元綱の首を埋葬する要因ともなったのであろう。
同年一一月二〇日は桂庵宅において、
青山右京大夫かここに止宿せる日
大名と背中合わせや 冬籠 桐 蔭
榾火たき/\咄す世の様 之 人
六丁か一里の国もかたり居て 馬 風
他は為仲・半米・佳涼・四六・可聴・花明・三楽・竹堂・村路で、時局柄か集まりも少なくなっている。同年一一月二七日水戸浪士通過のとき、馬風は亀山嘉治に会い直垂に発句を請い、<霜まけもせすに花咲く桜かな>、<夷等は今吹く風の木のはかな>の二句を受けている。
明治一五年馬風の三回忌に社中の手で句碑が建てられた。これには、<菊折てすててまた折る山路かな 馬風>と彫られている。
菊折てすててまた折る山路かな 馬風>夷等は今吹く風の木のはかな>霜まけもせすに花咲く桜かな>脚かるもまた来よ桜もみち狩>来る年はまた三日月に名残かな>なつかしき都の便きくのけふ>