馬島靖庵と称し、「美濃国恵那郡苗木藩遠山侯の典医水野自牧の次男(ママ)である。幼より尾張国海東郡馬島の天台宗明眼院の馬島氏に寄寓して医術を学び、業が大いに進んだ。されば其の師坊の恩寵を永く銘記せんとの心遣りにや、何時の頃よりか馬島姓を称するに至った。」と「岐阜縣郷土偉人傳」に記載されている。中津川で医を開業し、間秀矩の姉に婿入りした。皇漢の学に通じ尊王憂国の志厚く、医業の傍ら寺小屋を開いて子弟を薫陶した。名を穀生(よしなり)、年成(としなり)、号を桐蔭、靖庵、紫陽、屋号を春秋花園という。詩歌俳諧に長じ、特に好んで漢詩を物している。晩年は不遇で、文久二年(一八六二)八月から元治元年(一八六四)七月末までは信濃の伴野村に仮寓し、(紫陽伴野日鑑)慶応元年(一八六五)から同三年までは三河国稲橋村[愛知県稲武町]の古橋家に仮寓、同年四月伊勢の林崎文庫(現神宮文庫)教授となったが、慶応四年四月一三日同地で客死した。行年五八歳であった。その三七忌に追悼法要雅会が催され、養子萬里(秀逸)が句集「作楽迺實(櫻農實)」を編集上梓した。
Ⅶ-33 桐蔭短冊(市岡正兄氏蔵)