桑蔭

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鈴木利兵衛清茂(嵩左坊)の女婿、本巣郡十八条村(巣南町)出身で幾昔また喜赤と号した。文政一三年(一八三〇)五月より天保四年(一八三三)一一月まで尾張儒者植松茂岳(しげおか)に皇学と筆学を習い、また養父嵩左坊が山村風兆から頂いた文台(風廬坊裏書)を継承し落合俳壇の指導者となった。文台開きは弘化二年(一八四五)落合において行われており、句集も板行しているが、虫喰い、汚損が甚だしく判読しがたい(槌馬屋資料館蔵)。
 安政二年(一八五五)から三年にかけて医王寺に俳諧奉納三部が献ぜられた。安政二年のものは「花鳥撰」と題し、願主は村川林蔵(亀叟)・長瀬与吉(時中)・辻井利助(浮月)で評者は桑蔭幾昔。三年のものは「月雪吟」と題し、催主は辻井利助・長瀬与吉・村川林蔵・蜂谷季助(馬州)で、評者鈴木桑蔭と裏書がある。今一枚は所在不明である。

Ⅶ-35 花鳥撰(落合・医王寺)


Ⅶ-36 月雪吟(落合・医王寺)

 桑蔭は明治一五年(一八八二)七四歳で病死した。辞世句<雲にのる首途や富士を初とまり>が高福寺裏の墓石に刻まれている。