苗木の歴代城主のうち、文学的才能の豊かであった人は一一代遠山友壽(ともひさ)であるといわれている。友壽は、天明六年(一七八六)に生まれ、寛政四年(一七九二)家督相続、鍛冶屋橋御門番、駿府加番等を勤め、天保九年(一八三八)一一月二一日五三歳で卒している。歌は江戸麹町に塾を開く和歌宗匠の高井宣風(のりかぜ)(寛保三年-天保三年)に学び、宣風の没後はその子八穂(やつほ)に指導添削を受けている。歌会は同族、家臣だけのごく限られた範囲の人たちで、友壽の子友詳(ともよし)(後に友禄)の筆になる「謌筌(かせん)」(天保六年~九年)によると、友壽の内室栄綱院綱・側室久ミ子・同ゆ賀(友詳の生母)・友訓といった身内の者、および家臣の霞上正求・宮地景正・佳松・長篤・宗布・延紀らが出詠している。
栄綱院は相当に歌道を修めたもののごとく「栄綱院様御詠」一冊があり、また、一二代の友詳(天保九年-明治二年)には右の謌筌と同じ期間の「拙詠」一冊がある。ただ、父の友寿には巻紙使用の詠草の四季十尽・槿等花々・秋二十首・春五首・御詠一五通があるだけで歌集としてまとめられたものは残されていない(岐阜県歴史資料館蔵)。なお、遠山家には「霞郷集」が所蔵されるが、個人歌集でなく合同歌集であるという[千早六雄氏談]。
Ⅶ-40 友壽書状(県歴史資料館蔵)
Ⅶ-41 友詳拙詠(県歴史資料館蔵)