桂園派の歌人たちと中津川

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市岡正兄家所蔵の短冊等を見ると、桂園派に所属する歌人が甚だ多い。木曽福島で大島直章・中山高包・了源寺日専・願行寺賢順・石作(いしづくり)敬直、贄川では小沢重喬・千村景村、松本地区では内山真弓・中沢重樹・倉科希言・萩原貞起、諏訪の今井信古、京都では香川景樹・同景恒・鈴鹿連胤(つらたね)・高橋正賢(まさかた)・山科元〓(もとのり)・蔭山秀雄・牡丹園空満・高畠式部、江戸では菅沼斐雄(あやお)・八田知紀(とものり)・渡忠秋らである。しかし、当地に来遊した人はそれほど多くはない。また中津川の歌壇に対して指導的な役割を果したと考えられる者は、僅かに高橋正賢・大島直章・中沢重樹の三名にすぎない。

Ⅶ-42 桂園派の歌人たち(市岡正兄氏蔵短冊)

(1)高橋正賢 姓は橘氏通称喜間太、号を随翁(ずいおう)という。香川景樹の門人で、また尊円法親王流の書道を良くした(徳島文理大教授兼清正徳氏・桂園派歌壇の結成)。
 中津川の文献上で正賢の名が出てくるのは、天保一二年(一八四一)市岡殷政の「千尋濱(ちひろのはま)」に「高橋正賢の五十の賀に寄松祝といふことを
千代ときく松の齢をかそふれはいそちの波そ久しかりける」
と賀歌を詠じ、正賢の中津川来泊を示唆している。この千尋濱は殷政が馬島穀生と語らい、天保一二年三月より一年一千首詠を競い、穀生は途中で挫折したが、殷政は目標を達成した(実は九八七首であるが)ので、穀生に䟦文と題名を乞い、「千尋濱(ちひろのはま)天」「千飛呂迺濱(ちひろのはま)地」の二巻とした処女歌集である。この歌集に朱墨による評と添削が記入されている。年代的には正賢筆と推定している兼清説(兼清正徳氏・桂園派歌壇の結成)もうなづけるが、異常なまでに厳正な文法やカナ遣いの訂正、歌評の姿勢から見て後述の笹垣清風の可能性も生まれてくる。つぎの引用歌中第四首など国学系ならではの見方であるといえよう。

Ⅶ-43 正賢短冊(市岡正兄氏蔵)


Ⅶ-44 千尋浜(市岡正兄氏蔵)

 時鳥  松風のおともお(を)のへに吹くれて山ほとときす鳴すさむ也 (評)よろしく承し(おををに訂正している)
 菊   吹わけてきくいろ/\にミゆれとも匂へる香社ひとしかりけり(れ) (係り結びの法則。こそは巳然形で結ぶ)
 落葉  山人のなれてもふミやまよふらし道わかぬまてむもる(うづむ)落葉に (評)うもる落葉とはつづかず(連体形うもるる)
 中川神社 中川の清きなかれに跡たれてミやしきませるしら山の神 (評)あとたれてと云事仏道わたりて後の事にて神社などにうちまかせて言ハ口をし(国学では仏も夷と排斥するため用語にこだわる)
 
 中津川の歌人たちが正賢に師事したのか、あるいは単に歌道の先輩として接したかは、きめ手になる記録を発見していない現時点での断定はさけねばならない。ただし、相当親密な間柄であったことは確実である。
 正賢は嘉永三年(一八五〇)、四年、六年と度々中津川を訪れており、その都度殷政らと唱和しているがその後は記録が途絶える。しかし市岡家短冊に「市岡政治ぬしにうませたる翠子の産屋に寄竹祝といへることをよみ侍りて  降雪の中より生し竹の子の千よの根さしそ久しかりける  随翁」がある。このみどり子がもし政香(安政二年九月二七日生)であるとすれば、晩年の正賢が来津していることになる。
 安政六年(一八五九)五月一日、間秀矩と肥田通光(馬風)は京都の道正庵に正賢を訪ねて唱和し、翌二日雨の中を正賢は白川ほとりまで見送り、歌の応酬をしている。
 
 時しもあれ山ほとゝきす一声はなきても君を送るなりけり         正 賢
 かえし 今はとて別れんとする時しもあれ雨と降り出てなくほとゝきす   秀 矩 (水垣清氏編・間秀矩集)
 
 正賢の素姓や没年は不詳で今後の研究を待つほかはない。
(2)大島直章 本名を磯野貞右衛門と称し木曽福島の山村家の留守居役を勤めたが、天保の疑獄事件(いわゆる天保四保の難)に連座して弘化元年(一八四四)一二月に追放された(徳川義親・木曽林政史)。追放後姓を大島と改めているが、その居所は定かでない。弘化二年の大黒屋八番日記の六月一八日の項に、「福島御家中様方拾弐人様共今般改て御追放に相成 木曽谷中幷に御知行所 他領共に御住居不相成候由に候 石作貞五郎様大井宿に御住居之由被仰聞候 永井六郎右衛門様には岩村御親類江御出被成候由承り候」とある。直章も追放後の一時期を東濃地方で過ごしたのではあるまいか。市岡殷政の「丁未詠草」に「落合歌結 大島直章評」として七題二首があり、また病気介護の感謝状や追放を匂わせる短冊も市岡家に所蔵されている。

Ⅶ-45 直章短冊(市岡正兄氏蔵)


Ⅶ-46 直章書状(市岡正兄氏蔵)

  おのれこ多ひ風の病にかかりて ねつもつよかりけれは ひと日ふつ日はわれにもあらすなやみふしたるをあはれかりて あるしの君いとねんころなるミこころくはりはいはんもさら也 のめる薬の数もまた多々ならんや さるにしはらく世にははかる筋も侍れはここもとに長くととまりをらんも さるかたのひひきいかかあらんと やめる思ひに心おくを 安くも引うけ給へる御志には 涙のミそ先たちける かくて日数ふるまゝに病も大かたおこたりて 常になり侍りけれは歓にたえす思ふすちの一首をよみて謝しまゐらすになん
                                直 章上
   底ひなき君か情のかゝらすハ 病めるままにて死なましものを
    (短冊)
 初秋風 めにみえぬ風のひゝきのいかなれは秋たつ日より身にはしむらん  直 章
 
  直章は弘化三年一一月二〇日、大山氏邸における六題二首歌結の評者となり、続いて一二月一八日同氏邸における十二首詠歌結の評もしている。大山氏とは誰か判明しないが、四保の難で追放された石作定五郎(貞五郎)の女婿が岩村領家臣の大山伝八郎廣英で、殷政と親交があった所から考えると、直章の仮寓は岩村あたりではなかったかという疑いも生じてくる。いずれにしても直章の消息は弘化二、三年の外中津川歌壇から消えうせている。晩年は江戸へ出たとの説もあるが確証を得ない。
(3)中沢重樹 信濃国贄川宿の出身で、松本伊勢町に住んだ。通称由右衛門号を蝶山人といい、信州桂園派歌人として、内山真弓・林良本・倉科希言らと共に松本地方の中心人物であった(兼清正徳氏・桂園派歌壇の結成)。重樹と当地方との関係は、弘化四年(一八四七)正月、百四十四番歌結の評者となっているほか詳らかでない。

Ⅶ-47 重樹短冊(市岡正兄氏蔵)