清風が中津川へ初めて訪れたのは弘化二年(一八四五)の春であり、引きつづき三年、四年と老躯に鞭うって清内路越えをしている。その真意は覗うすべもないが、木曽谷を南下してくる桂園派に対抗する意図が潜んでいたようにも思われる。
弘化三年来遊の時には、神田長教の父君の追悼を清風・定民・殷政・秀矩・文則・初枝・馬風の七名で詠じ、宗泉寺紅葉見物では秀矩・清風・殷政・実岩が唱和し、また大泉寺雅会では秀矩・定民・馬風・殷政・清風・実岩・初枝らが和歌と俳諧とを同時に唱和している。
秋日同詠 鴫 和歌 会場実相院(大泉寺)
さも社(こそ)は枕の露も氷なれ暁つくるしきのはねかき 秀 矩
深草や露にふしみの床さえて月も更行鴫のはねかき (大泉寺)定 民
沢水になみたつ鴫の羽おと哉 馬 風
秋はたゝ物をそおもふ暁の鴫の羽かきかきもたゆまて 殷 政
うちそよくゆふへの風の萩はあれと暁かたの鴫の羽搔 清 風
同 当座探題
(秀矩・実岩・通光・定民・殷政・清風各一首省略)
俳諧
(露文・定民・花実・初枝・馬風・半米による八句省略)
Ⅶ-48 清風短冊(市岡正兄氏蔵)
更に弘化四年に来遊の時は雨をついて木曽川を渡り、苗木地区を一週間ほど巡杖し、殷政・穀生・千束子・勝許・長教らと唱和し、中津川に帰って引きつづき歌会を催している。
清風に正式に入門した人は殷政・穀生・秀矩以外は分明でない。しかし、弘化四年頃のものと思われる「清風撰哥」(市岡正兄氏蔵)には、飯田、伊那地方の錚々たる歌人たちに伍して、長教・秀矩・穀生・殷政・通光・政治・初枝・文則・千束子・定民の一〇名が選ばれている。一応門下と見てよかろう。この中、左の五名の作をあげておく。
海辺落花 ちるはなををしまの蜑のうらみてもかひこそなけれ八重の汐風 長 教(姓神田)
月前菊 おもふとち月を見るかな千よふへきやとのまかきの菊をかさして 千束子
名所蛙 山吹の花さき匂ふをりにあひて鳴や蛙のゐての玉かは 政 治(姓市岡)
待 恋 うくひすはねなましものを待すして人たのめなるささかに(蜘蛛)のいと はつえ子
寄月恋 たまさかにめくりあふ夜の月をたに又うき雲の立へたてつゝ 文 則(姓岡本)
Ⅶ-49 清風撰哥(市岡正兄氏蔵)