放浪の歌人安藤野雁

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幕末の歌人中、その放浪性と特異な万葉調の歌で近時注目され始めた作家に安藤野雁がある。畢生の大著「萬葉集新考」一五冊(或いは三〇巻とも二六巻ともいう)を世に遺しながらその足跡は今日もなお不明な部分が多い。昭和五四年(一九七九)九月彼の出生地福島県伊達郡桑折(こおり)町に建立された野鴈歌碑の裏面にある安藤野鴈略伝(成蹊大教授・遠藤宏氏執筆)によれば、
  安藤謙次政美 通稱刀禰號野鴈(ぬかり)文化十二年(西暦一八一五)三月四日陸奥国伊達郡桑折に生る 父は代官所役人北村新兵衛重有 半田銀山方組頭安藤祐次政直の婿養子となり 安藤政美と名乗る 代官手付として寺西蔵太元榮に仕え 主君の西国郡代榮進により豊後国日田へ赴く 彼地に於いて主君と妻須磨を失い 上府して和學講談所に入塾し将来を嘱望された 数年後離塾し東海道筋 上州越後等の各地を歴遊 晩年は武州熊谷胄山の根岸家に身を寄せた 幼時より和歌を良くし長して信夫郡瀬上の内池永年に師事更に本居大平 村田春門に学ふ 日田の碩学廣瀬淡窓には学識を賞せられた 獨自の歌風は遺憾なく己の生を詠出 弊衣 縄帯等の奇行と相俟つて幕末歌人中異色の存在として知られる 野鴈集・刀禰記・道乃菅能根・胄山防戦記・大伴家持卿伝等を著す 生涯酒を愛し権門に諂うことのなかった此の野の鴈は 畢生の萬葉集新考の上梓を目前にして慶応三年(西暦一八六七)三月二十四日武蔵国熊谷荒川の畔遅桜の下に逝く 享年五十三
となっており当地方来遊の時期等は不明に付している。

Ⅶ-50 野雁短冊(市岡正兄氏蔵)


Ⅶ-51 野雁歌碑(福島県・桑折町)

 野雁が東美濃に入った年月は不明であるが、中津川宿から江戸へ向ったのが嘉永三年(一八五〇)の秋冬の頃であるのは左の資料によって明らかである。殷政はその著「庚戌詠草」において「安藤野雁か嬬にかへる馬の餞に ますゝはらおくしもふかきミ坂ちに君をしやれはこゝろさやきぬ」と別れを惜しみ、野雁は「美濃国ゑなの郡より歸らむとするに人々別をしみて中津川の駅にて馬のはなむけしけるによめる 別れてもなほわかれぬや目に見えぬ心々のわかれなるらむ」と返歌している(渡辺金造編・安藤野鴈集)。
 東美濃地方における野雁の足跡を文献によって見れば次のとおりである。
 
岩村・吉田刀自八十賀寄松祝 [長歌・反哥各一首] (市岡正兄氏蔵道乃菅迺根)
〃 ・千笑亭歌 [長歌・反哥各一首]       (同 右)
〃 ・美濃国岩村の田島頼之が家の千笑亭に花の木ともなと多くうゑならへて遊ひあへるに [和歌三首] (市岡正兄氏蔵・堂悲知能く左の葉)
中津川・謝中津川諸君 [長歌一首短哥三首] (同右・道乃菅迺根)
〃 ・真木屋寿哥 [長歌・反哥各一首][市岡殷政の家](同 右)
〃 ・楽声舎歌 [長歌・反哥各一首][間秀矩の家](同 右)
〃 ・めり [歌語注釈] このひとくさりハ美濃国恵奈郡中津川駅の人羽間半兵衛秀矩かとへるにこたへたる也(福島県立図書館・刀禰記)
馬籠・島前家謌(歌) [長歌反歌各一][島崎正樹の家](市岡正兄氏蔵道乃菅迺根)
 
 なお、成蹊大学教授遠藤宏氏は「道乃菅能根」(市岡正兄氏蔵本は道乃菅迺根)の「爲唐琴暢懐」も現瑞浪市土岐町の中島晧壹氏宅での作と推定されている。
   この中島家の琴に関しては、島崎正樹も「美濃国土岐郡猿子邑中島氏所蔵七弦琴歌」(長歌反歌各一首)を詠んでいる。野雁が中島家に足を延ばしたのは正樹の線かあるいは、中島家が間家と同じ造り酒屋であるところから、秀矩の関係かと推測される(安藤野雁考(二)・論集上代文学第四冊)。
 このように、遠藤氏は野雁と正樹との作品を同所同題と見做しておられる。しかし、野雁作は「六礼合筋能六緒乃睦話(ムツレアフスチノムツオノムツカタリ)」と七弦でなく六弦琴を詠っている。何れが正しいか確かめるべく中島家をわずらわせて探していただいたが発見できなかった。唯今のところ断定は避けたいが、中島家に中国明時代の古琴が所蔵されていたことは、岩村松平家家老丹羽瀬清左衛門筆の「古琴元禄酒詠詩」軸を見ても疑う余地はない。
 庚寅ノ秋仲訪フ猿子邨中島氏ヲ主人出シ一張ノ琴ヲ見ル示 又出シ一壺ノ酒ヲ 飲セシム之ヲ 琴ハ係リ明ノ萬暦年間ニ 而シテ酒ハ則チ其ノ祖先元禄壬午ニ所醸ス也因リテ賦シ此ニ贈ル之ヲ
 華堂開ク讌(宴)ヲ故人ノ情 流水高山秋倍[益]清シ 萬暦ノ古琴元禄ノ酒 聞イテハ聲ヲ忘レ味フヲ々ヒテハ忘ル聲ヲ 格庵丹裕 (瑞浪市土岐町中島晧壹氏蔵)
                            [返点送仮名筆者]
 右の外、中津川には野雁の短冊、詠草下書き、随筆下書き、歌評扇子、万葉集新考の草稿など現存し、野雁研究の貴重な資料となっている。
 
(1)こちこちのかきねをくゝる庭たつみ(潦) なかれてあはゝ世に淺くとも 野雁
(2)あふみにか有といふなる床の山 わかまたしらす不知(いさ)や川にて 野雁
(3)かきねよりゆふ霧のほる芦引のやまさとものは秋そ悲しき 野雁
(4)なくなくも猶まゐらするかんさしに たまぬくものは涙なり鳧 のかり
(5)吉野歌  神世従(カミヨヨリ) 長良経来者(ナカラヘクレハ) 芳野山(ヨシヌヤマ) 木末繁美佐備(コヌレシミサヒ) 余斯奴川(ヨシヌカハ) 石蘿生努(イハコケムシヌ) 雖然(シカレトモ) 春部二成婆(ハルヘニナレハ) 櫻花(サクラハナ) 色不更(イロモカヘス) 百千鳥(モヽチトリ) 鳴母不変(ナキモカハラス) 河湍爾(カハツセニ) 年魚子左走(アユコサハシル) 川淀尓(カハヨトニ) 蝦友喚(カハツトモヨフ) 毎聴(キクコトニ) 聞之清亮久(キヽノサヤケク) 見胡䓁尒視乃〓怜志(ミルコトニミノオモシロシ) 三吉野國(ミヨシヌノクニ) 野雁 (新発見長歌)
                       (以上市岡正兄氏蔵短冊懐紙)
(6)[故郷月]  清みはらつきの都は有なからかけたに見えぬ古のそら 野雁
(7)[名所穐風] しらぬよのあはれをかけて響く也さか(嵯峨)のゝおくの松かせのこゑ
                                    野雁
(8)[山家暁月] わか山のまきの木ぬれにしらみおちあけむとすらむ月のさやけさ
                                    野雁
(9)端午歌 [長歌反歌各一首] 半折   (省略)
(10)古戦場 長歌一首 小型色紙  (省略)
(11)圍 碁 長歌一首 小型色紙  (省略)
(12)楽声舎歌(サヽノヤノウタ) 天在也(アメナルヤ) 佐瑳羅迺小野能(サヽラノヲヌノ) 小竹乃若末爾(サヽノウレニ) 白露結(シラツユムスヒ) 其露乃(ソノツユノ) 高山尒下格(タカヤマニクタリ) 左久那太里(サクナタリ) 落湍津瀬乃(オチタキツセノ) 美奈固鳴侶(ミナコヲロ) 古烏呂爾畫鳴(コヲロニカキナシ) 八潮折(ヤシホヲリ) 造有酒迺(ツクレルサケノ) 味実諸(ウマミモロ) 呑能宴二(ノミノウタケニ) 小竹之葉乎手草尓結而(サヽノハヲテクサニユモテ) 筱竹之(サヽタケノ) 本末令相(モトヌヱアハセ) 節毎(フシコトニ) 謌布佐〻我〓(ウタフサヽカネ) 磐金能(イハカネノ) 夾間介繁利(ハサマニシケリ) 立栄在(タチサカユル) 葉様乃吾兄賀(ハサマノアセカ) 垣〓在(カキコモル) 隈能弱室(クマノワカムロ) 其室乎(ソノムロヲ) 楽声能志努屋止(サヽノシヌヤト) 言称(イヒタヽヘ) 辞上為楽(コトアケスラク) 百小竹(モヽシヌ) 三野迺筱村(ミヌノサヽムラ) 五十篠群(イサヽムラ) 伊邪世我背子(イサヨアカセコ) 五百代能(イホシロノ) 千頃乃御稲(チシロノミシネ) 秋迺穂乃(アキノホノ) 八束垂里之称(ヤツカタリシネ) 敏鎌以(トカマモテ) 千鎌刈取(チカマカリトリ) 豊頴乎(トヨカモヲ) 千柄臼搗(チカラウスツキ) 真清水爾(マシミツニ) 古〻登毛微(コヽトモミ) 五百腹乃(イホハラノ) 千腹能〓爾(チハラノカメニ) 醸湛(カミタヽヘ) 能美弖歌波世(ノミテウタハセ) 伊閇迺名能左〻(イヘノナノサヽ)
     反 謌(歌)
      君賀住(キミカスム) 屋所迺佐〻武邏(ヤトノサヽムラ) 根座爾之米(ネクラニシメ) 知〻余〻止与夫(チヨチヨトヨフ) 友雀鴨(トモスヽメカモ)  安藤野雁(アンドウノカリ)  (新発見長反歌) (以上間譲嗣氏蔵短冊色紙扁額)

Ⅶ-52 楽声舎歌  (間 譲嗣氏蔵)

(13)手をり来てやとにふすふるなま柴の煙や霧の下葉なりけん 野雁                    (勝野正男氏蔵短冊)
(14)殷政・穀生歌野雁評扇子
     秌 夕
  またやミむ梢のかきりもみちするあらしの山の秋のゆふくれ しけ政
  とし月をめなれてミつのうら浪になミたやよする秌のゆふ風 穀 生
    左梢のかきりといひ あらしと云 又やと云ふ けに残るましう哀にこそ
    右ハ涕をよすてふことは(言葉) 中〻工を求たるやうにや 野 雁 (市岡正兄氏蔵)

Ⅶ-53 殷政 穀生歌 野雁評扇子(市岡正兄氏蔵)

(15)萬葉集新考一(市岡正兄氏蔵本製本)萬葉集新考草稿(間譲嗣蔵仮綴本)
(16)詠草草稿 (半紙三葉十二首)随筆草稿(巻紙一葉二章)(市岡正兄氏蔵)
 
 野雁がどのようなつてを得て東美濃地方にやって来たのか、今日までの所、究明されていない。諸般の事情から万葉集新考の著述に最も有利な江戸を去り、放浪をつづけながらも鋭意著述の筆を執っていたであろうことは市岡家や間家から発見された「萬葉集新考」からも推測できる。また、野雁は相当長く当地方に留っていたと考えられるが、期間の裏付けとなる資料はまだ発見されていない。中津川の歌人たちに古今集や万葉集等の注釈をしただろうことは前記「刀禰記」の文から分かる。また、殷政に「吉田氏母刀自の八十賀に寄松祝」(牟具良能都遊所収)や、長恨歌のこころを詠じた和歌四首(庚戌詠草)があり、これは野雁の作と同題であり、彼が中津川の歌人たちと唱和した証ともいえよう。ともかくも東美濃地方における野雁の足跡は今なお多くの謎を残している。
 [参 考]
  「せ き 山」     信夫顕古序、安藤野雁著(第三の章原文のまま)
 ミのゝくに 恵奈のこほりなる いはむらといへるところは いとやまふかくこもりたるところのさとにて おほかたにハあまりひともいたりかよハぬ やまつほになんありける かゝりけれとも をはりのなこやより せをせ(ママ)こしておこせたる人のありけれは さるめつらかならんところも みなからものせんとていたりけるに みなつきのつちさへさけて てるひのまひるなからに こかけもなきやまさかのみちをおしのほりて あつさのけとひきこめたるにやありけん いといたうこゝちをそこなひて やみこやしぬ よるひるのわいためなく ゆゝしくなやミわつらひたりけれとも ひころありてすこしくよろしかりけれは ほととほからぬなかつかはのうまやに たつぬへきゆかりのところあれは えとにすこしもちかきなるをたのみてたとる/\いたりてなんありける そこなるひと/\ともかたらひつきにけれハ いとしらぬくにのひとのやうにのみもあらす せけん世かいの はかなしものかたりをもしあひてなと ありわたりけるに かのやまひは なほおこたりはてす をり/\いみしうおこりかへりなとしつゝ わつらふほとに あきにもなりにたりけり すゝしくなりぬれハ よひなとハ すこしおきゐて つきなとみるをり/\ありけり はかなくあかしくらして はつきのつこもりになりぬ かとたのいねも ほにいてゝなひきぬ かりのつらねて なきわたらぬよもなし やまとほからぬ(ママ)ハ をり/\しかなともなきぬ きつねのしはなくも そりこのわたり さらぬところになんありける さむくなるまゝに とほくまはらなるひとさとのむら/\にて ころもうつなともあはれにきこゆる くさのいほりのうちに ともしひをなかめて まくらによりそはりて ものをのミなんおもひつゝきたりける えとにかへらんハほとはるかなり せをそこせんたよりもなし 京のかたもなほはるかにとほし なかそらなるところにて いのちもなほ いとさためかたしなとおもふに よるなともたえて いをねられねは くさむらのなかなる さま/\なるむしともの なくこゑをきゝあつめつゝ きそかはのおとろ/\しくあらましき水のおともきゝなれて おそましからぬやうになん なりにたりける やう/\にころも よさむになりまさりゆけハ しもよのつきかけ いたうさえわたりたる にはのおもてに しらきくのはな むら/\にほへるなんあすものなくあハれにゑんなりける とかうさま/\に やまひをつくろひつゝ なかつきのなかのとをかはかりになん いてたちにける 見もていくまゝに そのはらやま ふせやなといふらんところのかたハ きりこめて ミのゝをやまハ うすもえきのにほひになん そめはしめたりける きそハ志奈のと ミのゝさかひなる やまなりけり まきのミとりの あをはのやまなるもあり ひたくれなゐなる にしきのおりものゝやうにて たきのしらいとを くゝりてそめたらんと見ゆる ゆはたなるところなともありけり
  くれなゐのにしきハかりはおらすして むらこにくゝるたきのしらいと
 いろ/\にましりたる いろのあハひも きはやかにわかりてめもあやなるに見いれて こゝろもほれたるやうにてなん やまみちをハふミける かりはねに あしふますなとそ むかしのひともいひたりけんところをやとなん ゆゝし
                                               (天理大学附属天理図書館蔵)
 天理図書館の特別のご芳情によって、同館秘蔵文書「せき山」の原文掲載を許可させられたので、少し長くはなるが全部を掲げることにする。ただ、名古屋から消息して岩村行きをすすめたのは誰か、中津川に野雁が訪ねたいと思った縁の家とは何処かは判然としない。客観的資料に徴すれば、岩村の作歌対象となっている吉田紋次郎や、千笑亭の田嶋自謙(頼之)の縁者である市岡殷政の家である確率が高いようである。この外、美濃の山・木曽・滝など判断を迷わせる地名もあり、野雁の帰路についてはこの資料をもってしてもなお結論をみちびき出すことのできないのは残念である。