在飯一二年、文久三年に白河殿に召されて上京するまで度々中津川を訪れ、市岡政治には能を教え、雅会に出ては時事を談じ尊王思想を鼓吹し、流暢な長歌、短歌を駆使して衆望をあつめた。明治一二年(一八七九)三月二九日七二歳で没している。彼の影響を思わせる中津川の人々の作品を二三挙げてみよう。
益良雄乃心毛努計志唐衣此連母宇津辺支比ハ来仁鳬 (馬嶋穀生・紫陽伴野日鑑)
(読) 益良雄の心も脱けし唐衣これも討つべき比は来にけり
ゆみは手に採りかねつともやす(矠)鎌の光しらすやを(鈍)その夷ら (市岡殷政・戊午詠草)
久かたの天の岩とのあけくれにいはひことほく大君のため 寄天祝(間秀矩短冊)
外っ国の船はやよせこ敷しまの皇みくさの手ふりミせてん (市岡政香和歌詠草)
Ⅶ-54 長世短冊(市岡正兄氏蔵)