幕末の諸事件と歌人の心情

1569 ~ 1570 / 1729ページ
幕末の事件中、特筆すべきは文久元年(一八六一)の和宮、元治元年(一八六四)の水戸浪士、慶応四年(一八六八)の赤報隊および東山道鎮撫軍の通過である。宿村の重職を担った人々はこれらの事件をどのように感得したか。数少ない資料で妥当を欠く恐れもあるが心情の一端を探ってみよう。
 
  女王のあつまにくたらせ給ふとききて、
 えそかよる草の荒野にねこしきて植んもつきな園の群竹
 しのすゝき高きものとは御園生の竹ミぬうちのこころ成らん (市岡殷政辛酉日記)
 当時尊攘論に組した中津川の人々であるから、和宮御降嫁には反対だった。しかし、いよいよ御通過に際しては、
 いひつきて千世も語らん呉竹の一夜斗(ばかり)の都なりとも (同 右)
 
と感激している。間秀矩には老女花園に送った長歌がある。間家の厚遇を謝した礼状に対する返しである(間譲嗣氏蔵)。
 水戸浪士の通過に際しては前述のとおり肥田馬風が亀山嘉治に発句を求めたほか、中津川本陣の市岡殷政は「水戸義士田丸ぬし湊をいて京に物しけるをり、あからさまに休らひけるか 政治を呼いてて何くれとかたらひ 後のかたみにと鎧の片袖をなん賜りけれは」と詞書し、
 
 いつか又逢みんこともかた袖のよろひの上に涙せきあへぬ
 左手の鎧の袖の賜ものを後の千とせのかたみとも見む
 
と詠じた。この鎧の袖は市岡家に現存している(口絵参照)。
 また、実戸に墓碑のある横田元綱についても殷政は、
 
 世に高く名こそ聞ゆれ和田山のをさゝの雪と身は消ぬれ共
 
ほか二首を詠じ、その戦死を悼み、更に翌年には、「水戸浪士の始め終りを」と題する連作一〇首の絶唱を残している(市岡殷政・甲子詠草)。
 赤報隊事件については当初は公をはばかったか何の反応も表わしていないが、隊長相楽総三の遺歌集「将満遺草」が刊行された明治三年頃(一八七〇)から重い口が開かれてくる。

Ⅶ-57 将満遺草(市岡正兄氏蔵)

 むさしのの荊刈退け玉しきの都となしし魁やたれ(市岡殷政・己巳詠草)
 諏訪の海の深き思ひに沈めとも名こそ浅間の高くきこゆれ(市岡武充・明治三年詠草)
 
 東山道鎮撫軍に従軍した市岡正蔵(殷政)・肥田九郎兵衛(馬風)・肥田四郎右衛門(通一)・中川萬兵衛(蕪言)・勝野吉兵衛(二明)・高木伝兵衛(定章)・鈴木利兵衛(茂門)・菅井九三(正矩)・菅井森之助(光高)・間半兵衛(秀矩)・間一太郎(元矩)・大屋仁蔵・園田市兵衛(信久)等は二月二七日出発、三月三日下諏訪より引き返したが、三月二日に左の三首が献詠された。鎮撫軍の先触れをつとめた感激と気負いが卒直に表出されている(市岡殷政・戊辰二月日記)。
 
 雄建日にたけひ出ますをいさましとたけミなかたの神もミるらむ 稲雄[座光寺村北原信質・殷政の甥]
 君が代は百千萬と動きなき岩倉あそミふみかためけり 殷政 [岩倉あそみとは岩倉具定を指す]
 日むかしの、えミしはらひて古のみのりにかへる春は来にけり 秀矩