(1)穀生の歌風 穀生の「紫陽伴野日鑑」(自文久壬戌二年四月至同甲子四年七月)は、彼の歌風の円熟期を示している。この日鑑はすべて漢字で認められ、詩あり俳句あり和歌あり、交友記あり、薬の処方ありといった珍しい著作である。信濃伴野村における新生活が生き生きと把えられていて、そこには明治時代の生活派短歌を思わせるものすらある。
朝日可計露毛万多干努片岨二女子何乎独焉麦刈流 [文久二年九月一九日]
(読)朝日かげ露もまだひぬ片岨に女子なにを独り麦刈る
疲果之山田乃畔乃老案山子袖毛真白二霜降鳬 [同年九月二六日]
(読)疲れ果てし山田の畔の老案山子袖も真白に霜降りにけり
十餘三乃月夜ハ嫋竹乃葉末乃露毛数部良礼乍 [同年九月一六日]
(読)十余り三つの月夜は嫋竹(なよたけ)の葉末の露も数へられつつ
龍川岩越浪二飛年魚乃狭鰭毛三由畄秋夜月 [同年一一月一日]
(読)龍の川岩越す浪に飛ぶ年魚(あゆ)のさ鰭もみゆる秋の夜の月
Ⅶ-58 紫陽伴野日鑑(市岡正兄氏蔵)
(2)殷政の歌風 殷政は信州座光寺村名主北原信維の五男で文化一〇年(一八一三)四月三日生、中津川宿本陣に養子となり、一三歳で家督相続、明治二一年(一八八八)七六歳で没した。通称長右衛門・正蔵、号土衛(ひじもり)、俳号露文、屋号を日新亭・槇舎(まきのや)・蘿垣舎(つたがきのや)という。性実直勤勉で、行動的というよりむしろ思索型の人物らしく、その歌風も温雅、流麗、中世の伝統を固守している。幕末の一時期においては平田派一流の直情過激の風になじんだが、御一新後は本来の姿勢に復帰している。その著わす所きわめて多く、和歌詠草二九冊、旅行記二三冊(俳歌のあるもののみ)、自選歌集は、千尋浜二巻、葎(むぐら)の露三巻、同選集一巻がある。総歌数八四八〇首から厳選して「葎(むぐら)の露」三巻となし、更にこれを一巻の「牟具良能都遊(むぐらのつゆ)」に搾っている。この最後の歌集は六〇四首であるから七八七六首をふるい落したことになる。平田派的作品の多くは自選から洩れており、ここに晩年における殷政の作歌姿勢を見る思いがする。俳諧は第二義的に考えたらしく、俳諧集は発見されていない。
初冬風 散りのこる楢の廣葉におとたてゝ風すさましき冬は来にけり
夕立 よられつる草葉の末もうちなひき一村そゝく野への夕立
雲雀 御坂山けさこえくれは霞たつ麓の野へにひはり鳴なり
(牟具良能都遊)
Ⅶ-59 殷政歌碑(旭が丘)
Ⅶ-60 殷政の著作物(市岡正兄氏蔵)
(3)秀矩の歌風 秀矩の中津川の酒造業で問屋を兼ねた十八屋間矩普(のりひろ)(里融)の子で文政五年(一八二二)一月一八日に生まれた。俳号を半米・半餅・半雅といい、屋号は有竹居を通称したが、ほかにささのや(楽舎・楽声舎・楽々舎)とも言ったようである。その著作については、水垣清氏編「間秀矩集」に詳しい。
秀矩の歌風は才気横溢して旧習に泥(なじ)まず、時には逸脱して狂歌じみた歌も物している。殷政と共に笹垣清風に師事したが、その不羈(ふき)の性格ゆえか歌から離れようとする一時期があった。(清風の殷政宛書信による)晩年は俳諧の方に傾いたと見る人もある。明治九年(一八七六)一月二三日五五歳で没した。まとまった歌集はなく、紀行文中の歌と短冊を残すのみである。
夕立の雨もひとつにあつまりて雲より落つるおの(小野)の瀧つ瀬
さきしりへ友よひかはす声しつゝ道はかとらぬ花の木のもと
のほりたち国見をすれは国原は早苗なみよる天のかく山
歩いても這ひてもゆけぬはい原は四ッ手の駕籠にのるへかりけり
(間秀短集)
Ⅶ-61 秀矩歌碑(旭が丘)