明治維新前後の中津川歌壇

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幕末動乱期を経て世の中が平静に戻るにつれて歌壇の情勢も次第に近代短歌胚胎の予兆を現わしてくる。かつての勇壮な憂国調よりも桂園派の流れを汲む典雅な調べが歌壇の主流となった。この時代における中津川歌壇の実情は資料不足のためよく分からない。弘化年間に端を発した歌結という歌会形式(歌合と類似しているが詳細不明)は慶応から明治初頭にかけてかなり盛行しており、現存する歌結も九冊をかぞえる。実際は更に多いと思われるが散逸して残っていない。ここでは拾四番歌結と弐拾四番歌結によってその概要を見るにとどめよう。
(1)拾四番歌結 慶応三年(一八六七)に催されたことはほぼ確実である。出詠者は、市岡政治(四四歳)・同政香(一三歳)・菅井正矩(三〇歳)・間元矩(二四歳)・同五十鈴子(一二歳)・肥田通一(二三歳)・同多め子(不明)・岩井知將(二一歳)・同將興(一七歳)・中川正憲(二〇歳)・園田信久(二八歳)・同ミツ子(二〇歳)・大屋定武(不明)・守賢(不明)で、その内九名は平田門、不明の五名はその縁者である。この歌結で分かる点は平田門人が主軸をなして営まれた若手の集団である事である。殷政は元老格で九歌結中六回ほど判をしているようである。(筆跡判定)
 
    二番 卯 花
     左                          正 憲(中川)
 夕月夜光をそへて久かたのかつらの里に咲る卯花
     右勝                         元 矩(間)
 神山の山のまそゆふみしかゆふ夕暮かけて咲る卯花
   右難而云 かつらの里の卯花と詠れたれとこは先の日正矩か哥(歌)によく似たるハ如何 左〓(陳)する言葉無 判云 左右とり/\なる中に右の難辞 〓(最)おもうへし 右一首心優に 言葉綾ありて〓秀逸と可申可為勝 (拾四番結より判者不詳・慶応三年)

Ⅶ-62 拾四番歌結(市岡正兄氏蔵)

(2)弐拾四番歌結 肥田通一・岩井義将・森孫一・市岡政香・小林廉作・岩井知将・菅井嘉久・菅井高文・大島文四郎・よみ人しらずのメンバーで詠まれており、明らかに明治初年の興風義校(小学校)創設当時の教師や役員である。判者は不詳。
 明治一〇年(一八七七)三月一四日、市岡政香・遠山林三・矢島寅之亟・小林廉作・肥田敬一・高木瀧二郎・菅井嘉久三・岩井織之助・菅井三九良・中川萬兵衛・川口精一・間半兵衛等一二名によって月次歌会「摘勝社」が結成されたが、活動の実態は明らかでない(間元矩詠草間譲嗣氏蔵)。

Ⅶ-63 殷政短冊


Ⅶ-64 秀矩短冊

[参考]歌結と中津川歌壇
  歌結なる語を初めて使用したのは誰か、歌合と区別した理由など現在までのところ取り上げて説明した人を知らない。あるいは、堂上派に反旗を飜した香川景樹の創始とも思われるが、確証はまだあげえない。当地方で発見された諸作品は大部分が歌結で、歌合は国学派系の歌人のものである。前述の二歌結の外の歌結の年次、出詠者、判者等をあげておこう。
 ①九番歌結 安政五年霜月廿日、会主春秋花園、判者殷政カ。殷治・忠矩・元矩・高林・有庸・佐一・高儀・千幹・正矩・之人・重信・秀一・定章・村路・秀矩・穀生。
 ②歌結 年次不詳、判者殷政カ。秀一・忠矩・千幹・殷治・元矩・之人・穀生・秀矩・有庸。
 ③十二番歌結 慶応三年カ、判者殷政カ。政香・定武・清睦・道一・政治・将興・正憲・旻盛・正矩・光高・元矩・知将・秀矩・馬風。
 ④十九番歌結 年次不詳、判者正興。武充・匡徴・直衛・正武・豹象。
 ⑤弐拾壱番歌結 年次不詳、判者殷政カ。通一・安棟・定章・武充・知将・政香・嘉久・敬一・直明・賢子・高文。
 ⑥拾参番歌結 年次不詳。判者殷政カ。茂門・有年・元矩・守善・政香・武充・隆道。
 ⑦十六番歌結 明治一一年カ、判者殷政。通一・知将・綱雄・麗左右・武充・敬一・政香。
 上述のように、幕末において平田学派の宣布手段として隆盛をきわめた中津川の歌壇は、御一新以後は教育関係者集団の手に移り、ナショナリズムの進展に伴って和歌より漢詩志向へと変容してゆく。東山道彦氏は「探古史談」一七七号において、
   明治中期から大正期に、中津川の文化サークルの成木星洲・成木蝶哉・間半醒(鷲郎)・市岡政香(町長)らと共に俳句、漢詩の同人杜(三餘吟社)を作り、北野・中津川畔の幽境に四時庵を建て、文人墨客のサロンとしたのが菅井蠖で俳号を馬良といった(三野新聞)。
と述べておられる。これをもっても明治期における中津川歌壇衰微の大要が察知できよう。明治十年代においては歌会結社まで作った人々がこぞって漢詩へと転向して行ったのである。具体的な例証として市岡政香の総作品を見ると、和歌二八〇四首、俳句一〇句、漢詩四八二〇篇となっており、和歌詠草は明治一五年で姿を消し、以後没年[昭和八年]まで書き継がれた「慢吟録」(市岡正兄氏蔵)の中で漢詩の占める割合は実に七一パーセントに及んでいる。間元矩、菅井嘉久もまた同様であると考えられる。
 かくの如く、明治漢詩壇の台頭と裏腹に歌壇は衰退し、大正末の近代短歌導入まではきびしい冬の季節が続くのである。