[寺子屋]

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 一般庶民の教育機関としては寺子屋や私塾がある。江戸時代中期になると盛んになってくるが、これは幕藩が治政の必要上から庶民への教化的内容を含んだものを奨励し、一方庶民の側においても生活上それなりの力をつけてきた結果、子弟の教育に意を注ぐことになったからである。
 しかし、当地において江戸中期に寺子屋があったかどうかは判然としない。時代は下って文政年間以降各所に寺子屋や私塾が創立された記録が残る。天保年間から安政年間がもっとも盛んで、それが明治五年まで続いた。
 当時、村の中で常識のあった者といえば僧侶であり、神職にある人、医者、そのほか村役人、宿役人などであった。寺は人が集まりやすく教習場として格好の場であり、和尚が能筆家であれば寺子屋を開いた。また、庄屋、医師、神職などの人でも、自宅で私塾を開き近隣の子弟を集めて教授をした。教える人を「手習師匠」子弟を「寺子」と呼び、入学することを寺子屋でも私塾でも一様に、「寺入り」と称していた。