記録にある中世の神社

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これまでは千旦林八幡神社と古窯跡との関連や神像銘、鰐口銘について述べてきた。これに対して、市内の中世創建と思われる他の神社には、このような中世創建、存続を裏づける直接史料は残っていない。口伝や地名がその手がかりとなるだけである。五輪塔などの中世遺物や地名などによりその場所を推測する程度で、曖昧さを免れない。以下、中世中津川に存在したと思われる諸神社を旧恵那郡[木曽の一部を含む]の神社に伝えられる記録を手がかりに考察してみたい。
 [参考]
  建武二年(一三三五)三月 笠置神社鐘銘
   ・大檀那領主 遠山加藤左衛門尉景村 美濃国蘇原荘安弘見郷中之方 氏子安全[恵那市中野方町]
  観応三年(一三五二)九月 八幡神社神像銘
   ・観応三辰九月 檀那 宗信
  明徳元年(一三九〇)八月 白山神社鐘銘
   ・加茂郡安弘見郷今村総社 檀那 藤原板津若狭貞久[今村・恵那郡蛭川村]
  永享一一年(一四三九)三月 白山神社鰐口銘
   ・北美州小木曽殿村白山奉宝前 永享己未三月日 鰐口一ヶ大勧進弘仙 敬白[木曽郡大桑村・殿]
  文明一八年(一四八六)六月 薬師堂鰐口銘
   ・美濃郡国遠山荘大井郷千旦林普門院
  長享二年(一四八八)七月 白山神社棟札
   ・長享第二戊七月三日 濃州加茂郡安弘見郷今村白山神社
  永正五年(一五〇八) 八幡神社棟札[岩村町]
   ・奉造修八幡宮 大檀那 藤原頼景願主敬白 永正五年戊辰 十一月二十八日 御代官近藤六郎左衛門重明 大工二郎右衛門
  永正九年(一五一二)一月 春日神社棟札[明智町]
   ・七難即滅 七福即生
  大永四年(一五二四)三月 熊野神社棟札
   ・奉再建熊野社堂一宇 奉行高柴伯耆守景長 大檀那 小笠原定基 大永四年甲申 年三月吉日 祢宜与二郎 大工苗木住左衛門五郎 中津川住市郎右衛門
  天文元年(一五三二)八月 笠置神社鐘改鋳銘
   ・大檀那 遠山左近佐正廉 美濃国加茂郡蘇原荘安弘見郷 中野方氏子中 別当勇海
  天文七年(一五三八)七月 武並神社鐘銘[恵那市正家]
   ・濃州恵那郡遠山荘大井郷正家村 武並大明神之鐘
  天文一六年(一五四七)一一月 八幡神社棟札
   ・奉造立八幡社頭一宇 造営師良弁 大檀那遠山左衛門尉景前 敬白 天文十六年丁未 霜月十日 棟梁熱田宮社人栗田源五郎守次 大工三郎右衛門宗教
  永禄七年(一五六四)三月 武並神社棟札
   ・永禄七年再建棟札 講師隆玄書 濃州恵那郡遠山荘大井郷遠山左衛門尉景任之知行 解説寺般若院武並社檀再興 新建立之棟梁飛驒源左衛門尉藤原家正
  文禄四年(一五九五)三月 八幡神社棟札[明智町]
   ・(裏)美州恵那郡手向郷明知村下柏尾 筆者池房祐憲拝
  慶長一一年(一六〇六)五月 津島神社棟札[岩村町]
   ・奉再献蛇毒神天王 右志趣者、大日本国濃州恵那郡遠山荘富田郷飯羽佐間村寄住
  慶長一五年(一六一〇)一二月 八幡神社棟札
   ・神鏡五面 南謄部州大日本国濃州路 祭主堀井治左衛門
    奉造立恵那郡落合村居住 宿役人市岡喜平治
 以上の記録によれば、白山、八幡、熊野などの神社名が見られる。そして、観応、明徳の年号は、北朝[武家方]年号である。このことから、武士による神祠の創再建や、神宝や什物などの寄進が行われていたことが分かる。

Ⅷ-5 落合  八幡神社

 武士階級により勧請された中世の神社は、それまでの国家の祭祀から離れ、地縁的な新しいつながりを深めていった。また、山岳信仰が密教と結びつき、修験道が成立したのも南北朝時代であった。
 こうした新しい形の信仰は、必然的に古代の神社信仰を変貌させていくことになり、式内三座、帳内七社の鎮座地をいっそう分からないものにしていった。
そんな中で、もし阿気明神で言うならば、昭和四六年(一九七一)に阿木公民館の建設工事現場から発見された初期白瓷の水瓶は一つの手がかりになるといえようか。