祭神の分布

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中津川市内の主な神社は、神明、白山、八幡、諏訪、津島……と中世以来の標準的な神社であり、近世になっても祭神の変化はなかったと考えられる。尾張領中津川宿村の枝村であり、恵奈神社、加上明神の鎮座地と推定されている川上の集落の産土神も、やはり神明神社であったことが常夜燈などから分かる。また、各村の産土神には複数の神が合祀されている。万治二年(一六五九)の尾張領湯舟沢村諏訪神社の棟札によれば、白山大権現・恵奈大権現・諏訪大明神・富士浅間大菩薩・八幡大菩薩、の五社が鎮座し、明和八年(一七七一)にはさらに神明大神が勧請された。

Ⅷ-6 湯舟沢  諏訪神社

 北野白山神社は白山大権現を中心に、熊野権現、富士浅間を相殿とする。周辺には白瓷系陶片が散在し五輪塔がある。また熊野田、祢宜屋畑、寺畑、比丘尼田などの地名を残し、天正の頃に寺のあったことが推測される。
 岩村領飯沼村神明神社の明暦二年(一六五六)の棟札では、
  奉再建 白山大権現 神明宮 熊野大権現
      明暦二丙申年四月 吉村太郎左衛門信次
とあり、ここでも三社相殿となっている(飯沼村旧記)。
 各神社の祭神は、地域的な特色のある祭神と、共通した祭神に分けることができる。恵那郡史によりこのことを旧恵那郡について見ると次のようになる。
 (1) 神明、八幡、白山、熊野神社は旧恵那郡全域で見られる。加子母、付知、川上の裏木曽三か村や中津川村を始めとする市域の白山神社については、天正一三年(一五八五)の飛驒大地震により廃寺となった威徳寺[下呂町御厩野]の影響も考えられる。

Ⅷ-7 飯沼  神明神社

 (2) 付知、加子母には飛驒一之宮水無神社が勧請され、濃飛の交流を示す一例でもある。
 (3) 福岡町内や苗木地区には、美濃一之宮南宮神社が勧請されている。付知川・木曽川対岸の福岡町高山や蛭川、それに木曽川沿いの笠置、河合には津島神社が祀られている。
 (4) 中津川村を始めとする市域は、白山、熊野、神明、津島など中世よりの御師の布教活動によるものと、武士が崇敬する神社を勧請して八幡、諏訪神社があり、中世的な色彩が濃い。

Ⅷ-8 駒場  津島神社

 (5) 現在の恵那市を構成する市域では、木曽川対岸の旧加茂郡((3)で記述)と、正家の富士浅間神社、永田の神明神社、東野の八坂神社、椋実の八幡神社を除くと総て武並神社であるが、大井の武並神社[尾張領]以外は旧岩村領の村々である。
 (6) 岩村とその周辺には、神明、八幡、武並の各神社の他に、日枝神社が祀られ、旧遠山村[山岡町]には、熱田、貴船神社[水神神社]が見られる。明知を中心とした現在の町域には、白髭、春日神社などもあるが、八王子神社が鎮座している。
 (7) 下原田、上村は諏訪、熊野、八幡など一般的な神社であるが、串原には八王子神社があり、中山神社は金峯山神社を勧請したものである。
 (8) 地方的な特色のある神社として、恵那、笠置、大船、中山、武並の諸神社などをあげることができるが、祭神からこれらの神社を考えると、恵那、笠置神社共に祭神は伊奘那岐命、伊奘那美命である。一般的にはこの両神は多賀大社に祀るとされている。
  また、武並神社は応神天皇を祀る八幡神社であるが、大巳貴命[出雲大社]を相殿とし、鎌倉三将軍[頼朝・頼家・実朝]を併祀するという(恵那郡史)。
   恵那神社の二祭神については、文政六年(一八二三)の神社書上げの覚(古来入用書付留帳市岡家文書)に、諾冊二神・恵那権現と書かれてからのことである。
 このように、各地域により、鎮座する神社は共通な祭神を祀りながらも、差異のあることが分かる。歴史的に生活基盤が共通していたり、同一の文化圏である場合、それに各神社の布教活動によって共通の祭神を持つことが多く、一方、領主の崇敬する祭神を勧請することによって特徴ある祭神となっている場合もあることが分かった。
 当時の村々が神社を祀ることは、固定されたものでなくその時々の情勢により流動的なものであったに違いない。これらの神社の創再建を近世に限定してみると、Ⅷ-9表の様になり、一六六一年から七〇年にかけての神社の創再建数は、他の年代より抜き出て多くなっている。このことを尾張徳川家に限っていえば
 ・寛文元年(一六六一)キリシタン奉行創設
 ・寛文五年(一六六五)寺社奉行の創設
など宗教上の対策をたてており、神社の再編成が行われた可能性が強い。

Ⅷ-9 旧恵那郡における神社の創・再建