濃州恵奈郡千旦林村寺社之㕝 一八幡宮 同社領田三反七畝(知行主三〇〇石)山村八郎左衛ゟ付置被申候 同社頭 三間四方 同瑞籬内 東西八間 南北八間 同拝殿ノ廻リ東西拾間 南北拾九間 同森東西八十間 南北百四拾六間 一神明 同社領無御座候 同社頭 東西三尺八寸南北三尺三寸 同森 東西三十間 南北三十五間 一白山大権現 同社領田八畝[(入相支配)山村甚兵衛千村平右衛門]ゟ付置被申候 同社頭三尺四方 同瑞籬ノ内東西三間半 南北三間半 同森 東西三十八間 南北三十五間 此社八千旦林村之枝郷辻原と申所ニ御座候 一稲荷太明神 同社領田壱畝山村八郎左衛門ゟ付被申候 同社頭 弐尺八寸四方 同森 東西五間 南北三間 此社八千旦林村之枝郷中新井と申所ニ御座候 一荒神 同社領無御座候 同社頭 東西弐尺七寸 南北弐尺 同森 東西八間 南北拾間 一もろき 同社領無御座候 同社頭壱尺五寸四方 同森 東西七間 南北弐間 一薬師 同寺領無御座候 同堂九尺四方 同寺内 東西四間 南北三間 此堂地大善坊と申候 一観音 白山善洞寺と申候 同寺領無御座候 同堂 三間四方 同寺内 東西拾壱間 南北八間 一観音 岩屋山椙久寺と申候 同寺領田七畝之内[弐畝 山村甚兵衛 五畝 山村八郎左衛門]ゟ付被 申候 同堂 五尺四方 同寺内 東西拾八間 南北十三間 此堂八千旦林村之枝郷岩屋堂ト申所ニ御座候 一嶺松山大林寺 [禅曹洞宗ニテ御座候当住持青山玄秀和尚ト申候] 同寺領 田畑六反六畝山村八郎左衛門ゟ付置被 申候 同寺内 東西十五間 南北拾六間 一十王堂(普門院跡) 同灯明田無御座候 同堂 弐間四方 一庚申堂 同灯明田無御座候 同堂 弐間四方 一庚申堂 同灯明田畑共ニ三畝所之者切発シ付申候 同堂 弐間四方 此堂ハ千旦林村之枝郷辻原と申所ニ御座候 右御朱印御墨印緣記由緒證状幷ニ什物 寶物無御座候宮守堂守無御座候 濃州恵奈郡千旦林村 延寶五年巳四月廿九日 庄屋市左衛門 同㐂太郎 同孫兵衛 同㐂三郎 同孫三郎 |
このような堂社書上げの他に、幕府や各領主の関係機関に提出される村勢や宿駅の現況調査報告にも堂社のことが記載された。これらの書上げや諸文献に見られる当時の市内各神社は、次の様に呼称されている。
・恵那神社=恵那大権現、恵那権現、恵那山権現、恵奈権現社
・八幡神社=八幡宮、八幡祠、八幡社
・白山神社=白山権現、白山宮、白山祠、白山大権現、白山権現祠、白山権現社
・津島神社=牛頭天王祠、牛頭天王社、牛頭天王、津島社
・神明神社=大神廟、神明宮、明神社、神明祠
・諏訪神社=諏訪大明神、諏訪明神社、諏訪明神祠、諏訪明神、諏訪大明神祠
以上の六社は、恵那神社を除くと、いずれも現在の中津川市を構成する近世一二か村の産土神である。このように神社の書上げを提出する段階では、中津川市内に鎮座すると推定される式内三座、帳内五社の神名は書上げられていない。これらの神社が考証されるのは、尾張徳川家の松平君山が、宝暦六年(一七五六)に著した「濃陽志略」の中で、恵那権現社を式内恵奈神社、帳内恵奈明神、それに、式内中川神社、中津川明神が中津川宿内にある、と記述したことによるが、考証の根拠となる理由は書かれていない。また、尾張家の家臣岡田文園が万延元年(一八六〇)に著した「新撰美濃誌」は、
「恵那権現社は延喜神名式に『恵奈郡 恵奈神社』と見え、美濃神名記に『従五位下恵奈明神』としるせり。……延喜神名式に『恵奈郡中川神社』としるし、美濃神名記に『従五位上中津川明神』とみえたるを八幡社とも白山社ともいへど、今 何れをそれとも定めがたし。」と、濃陽志略と同一の見解を述べ市内に鎮座すると推定している。他の式内社、帳内社については、「美濃神明記に恵奈郡従四位上阿気明神としるしたるはここなり」と、阿木八幡神社をあげているだけである。また、「吉蘇志略」より、恵那山と湯舟伝説を引用している。恵那山伝説は、寛延四年(一七五一)に首藤元慶[岩下城下の町医者]が著した「巌邑府誌」が詳しく、以後の神社考証にたびたび引用されるが、「巌邑府誌」は恵那山伝説に否定的な見解を述べている(第四章第七節信仰)。
Ⅷ-10 中村 八幡神社
Ⅷ-11 手賀野 諏訪神社
Ⅷ-12 阿木 八幡神社
Ⅷ-13 茄子川 諏訪神社