「式内式外の儀 先年来社人ヨリ名古屋藩ヘ願立テ居リ候処相定メズ」
社人酒井和多利が坂本神社と唱えることについて、名古屋藩へ運動していたことがわかる。この件につき名古屋藩北地総監所は、明治元年(一八六八)、千旦林村に神社の書上げを命じ、千旦林村は、「乍恐御尋ニ付奉書上候御事」を提出している。坂本神社と名乗ることに付き、茄子川村の野田・坂本組帳は、安政六年(一八五九)から「茄子川諏訪神社を坂本神社と唱える。」と記載している。一方の千旦林村には、「文政一二年丑十二月 坂本神社唱度願入用帳」があり、村明細帳に書かれる以前より坂本神社称号相論は続いていたのである。
両村の運動の様子は、茄子川村では野田・坂本組帳にそのあらましが書かれ、千旦林村では前出の北地総監所への提出文書と、文政一二年(一八二九)の入用帳があるが、相論の全容が分かる文書は残されていない。しかし、両村の「坂本神社」と呼称する運動は、同じような展開をしたものと思われる。運動の経過や出費については千旦林村の史料による他ない。入用帳をもとにその費用をまとめたものがⅧ-14表である。
Ⅷ-14 坂本神社称号の嘆願の諸費用
文政一二年(一八二九)
千旦林村では、室町時代より江戸時代末まで、吉田御殿の名をもって神社を支配していた、吉田神道の家元を度々訪れ、天保二年(一八三一)には、坂本神社の額を受けている。また、尾張徳川家の寺社奉行所へも陳情し、初めて地頭[山村八郎右衛門三百石方]に対面しており、その地頭が寺社奉行所へ出向き 便宜を図り手助けをしている。