神社名の変更

1602 ~ 1605 / 1729ページ
慶応四年(一八六八)三月、新政府は祭政一致の制を復活した。これにより全国の諸神社は神祇官の所属となった。また、神仏判然令(分離令)を布し、諸神社から仏教を排した。苗木遠山家では、七月二九日の日付で城の鎮守である龍王権現宮を高森神社と改称することを布達している。
 八月三日には高森神社の社人理湛が、神社に移行するために一一項目の伺書を提出している。この龍王権現宮の性格は、
 
      口上
 一 是迠院本尊木像大日如来取斗之事
 一 正五九護摩執行之本尊不動明王取斗之事
  (以下略)
 
の二項目に見られるように、知恵の光明で総ての煩悩の暗を除き、慈悲の光明は総てのものに救いの手をさしのべるとされる大日如来を本尊とし、大日如来が降摩のため身を変じた不動明王が護摩執行の本尊である真言密教であった。
 光耀山龍王権現宮の呼唱変更前の七月二六日、目付青山佐治郎は龍王院理湛に、城の鎮守である龍王権現宮と城内二本杉の清龍権現宮[玉依姫命]の城内への引移しを通告した。また、七月二九日には、「……神号御改唱之義申達并 法印復帰申付旨役人共与申達候事」と法印より神主に復帰することを理湛は命ぜられ、一一項目の伺書には「高森神主 理湛」となっているが八月四日には八尾伊織と改名している。
 龍王院理湛[八尾伊織]は、これまで執行していた毎月朔日の祈禱と、正月、五月、九月の朔日に行う特別な祈禱につきどのようにするかの伺書を八月七日に提出すると、「当日御祭礼 神祭と相心得可申事」の返答を受けた。さらに八月二九日には、「来(九月)十六日朝御祈禱 此度はまず同人神前において執行候申付候事」と、祈禱を城内でなく神前において暫定的に執行するように伊織は命じられた。当日は、
 「高森神社神前ニ於テ御祈禱ニ付き 棚橋亘理相詰八尾伊織勤之無滞相済 亘理登城之上申聞候事」
と、棚橋亘理が祈禱に立合い、「滞り無く相済」とその首尾を報告している。
 以上、三月の神仏判然令公布から九月一六日までの神仏分離に関わる苗木遠山家の対応を述べたが、苗木領内では、福岡村[恵那郡福岡町]の氏神牛頭天王社は福岡神社と改められ、同社別当某も坂本左京と改名している。このほか主な改名や社号の変更では、天王院[字瀬戸山の田]は鷲見兵庫と改名し、飯森山権現[恵那権現勧請]は飯森山神社[字瀬戸山の田]と改称した。
九月二八日には、中野方村[恵那市中野方町]笠木権現は笠木神社の改称と、同権現別当清法院某の鷲見左仲と改名する届が提出されている。一〇月二日には、八尾伊織と鷲見兵庫が領内の社家取締りに任命されている(覚秘録・遠山家文書)。
神仏判然令(分離令)以後の明治三年(一八七〇)一月には、神道の国教化をめざす大教宣布の詔がだされ、翌四年(一八七一)五月には、神社の社格などを定め、神社はすべて国家の宗祀であることを宣した。神社の社格は官・国幣社・郷社とし、各小区ごとに郷社を定めて小区に属する村々の産土神とした。(関係分は次の通りである。)
 八幡神社(阿木)
 ・七小区 阿木、飯沼二か村
 恵那神社(中津川)
 ・八小区 千旦林、茄子川、駒場、手賀野、中津川、落合 六か村
 神明神社(日比野)
 ・九小区 日比野、瀬戸、坂下、上野、川上、下野、田瀬 七か村

Ⅷ-15 苗木 神明神社

 また、神官の職制も定めている。これらの政策は、神社を氏子の手から離すことになるが、区制の廃止と共に、一村ごとに鎮守の神社を置くことになり、氏子が祭典を行うこととなった。
 このような維新後の神社に対する政策、前述した中、近世領主の崇敬した神、それに中世以降の御師などの布教活動による新しい神々の勧請鎮座は、古代の神々の鎮座地をより分からないものにしてきた。
 延喜式などの古代の文献は、中世以降に研究の対象となり、この地方でも一七世紀中葉から神名と鎮座地の考証が行われるようになってきた。その多くは考証当時の地名と視点により推察され、地名が比較的新しい時代につけられたにもかかわらず、隆盛している村落につながりを求める傾向にあった。また、村の歴史を語るとき、産土神がその中心となり、神々や古代にさかのぼる由緒(伝説)がつくられたのである。これらの点から考えると、延喜式や神名帳記載の神社は、比較的新しい時代に鎮座地が推定されたものであると言え、この時期になって、市内の式内三座、帳内四社を検証することは、史資料が乏しく困難な状態である。残念ではあるが現段階では断片的な調査にとどまった。
今後の総合性を持った科学的な調査にまつほかはない。