吉祥院 (神坂)

1612 ~ 1613 / 1729ページ
 一六世紀頃建立されたものと考えられる。それは、川並不動尊堂の仏像の台座に「文禄元年壬辰四月 天台沙門照永作」の銘が刻まれていること、また、坂巻家の系譜箱に「吉祥院照永 天正一五年二月」とあることから推察できる。
「上巻・中世の仏教」と重複するが、若干の調査をもとに、中世廃寺跡一八か所をとりあげ記述した。しかし、市内の廃寺を総て網羅したわけではない。これらの廃寺跡と言われる地点からは、当時の陶器片が採集されたり、地名や五輪塔・宝篋印塔が残っているが、礎石などの遺構が分からないので、これが廃寺跡と確認することができず、石積みがあっても耕地との見分けがつかず、廃寺跡かどうかの判断ができないのが実情である。また、兵火により焼失したと言われている廃寺跡からは、焼失による炭や灰の堆積が見られず、その様な報告などもされていない。同時期に兵火により焼失した岩村の大円寺(臨済宗)からは、数多くの遺物が出土しているが、中津川では見つかっていない。これらの焼失寺跡が分かりにくいのは、その寺院の規模によるものと考えられる。
 寺院の規模について、すでに「巌邑府誌」は、
「……古ハ堂閣門曁属坊十二有リ 兵災二罹リテ亡フ 即チ今田間ノ地ニ其坊ト名ツクル者有り 乃チ属坊之趾也 熟ツラ地理ヲ観ルニ狭隘ニシテ許多ノ堂閣有ル可ラズ 疑フラクハ此地旧ト属坊ニテ廃後長楽寺ヲ此ニ徒建セシカ」
 と、阿木・長楽寺(天台宗)に付いての見解を述べている。この長楽寺は、鎌倉期の土師器と室町期の十一面観音を残して現在に至っているが、十二坊が属していたには狭すぎ、「……蓋シ長楽寺旧蹟ヲ以テナルカ」と、萬嶽寺(曹洞宗)の境内を長楽寺の旧地としている。「巌邑府誌」や、千旦林村の願成寺を取りあげた「美濃御坂越記」の様に、江戸時代中期末から中世廃寺跡の考察がなされるが、伝承や地名などによる考察が多く、現在でもこの方法に頼りがちである。廃寺跡をより確かにするためには、伝承、地名の他に、中世墓碑の発掘、それに出土品を検証し、中世文書などの内容を加味する以外にないと考えている。
 近世の寺院については、各寺院方に開基や中興からの由緒・寺歴等の報告をお願いし、「第二項 近世の寺院」に所収することとした。