承応二年(一六五三)一〇月、木曽山口村光西寺の閑栖であった雷庵和尚によって本寺が再建されたので、雲庵を中興の祖と仰ぎ伝承されている。
寺の過去帳並びに島崎家文書には次のように記されている。
「寺内御除地四反三畝拾歩 右天徳寺 承応二年建立仕候」
その後宝永四年(一七〇七)に再建され、正徳三年(一七一三)千旦林大林寺より本尊を申請入仏供養が行われている。その時の模様は、
「手金野村松源寺萬龍和尚肝煎に而入佛供養有之候 寺方招請 松源寺両和尚 福昌寺 善昌寺 医王寺 山口村光西寺 馬籠永昌寺 妻籠光徳寺 三留野等覚寺 此外旦中不残三百人程右之通り寺扣に拝見候 時の住持祖笭に候」と記され、その盛大さをうかがい知ることができる。
天保一四年(一八四三)に焼失、弘化四年(一八四七)寺社奉行に再建を申し出、二年後の嘉永二年(一八四九)同寺一三世高桟祖元の手によって現在地に再建された。よって高桟祖元を再中興開山と言い伝えている。
三間・四間半の方形作りである観音堂は、宝暦四年(一七五四)に建立されたものである。観音菩薩・弘法大師・子安地蔵・庚申尊天・閻魔大王がその内陣に安置されている。
慶長五年以降の歴代住職
澤堂智仁 雲庵 慶岩明賀 宝山盤玉 佛界泰鷹 完翁良全 成徳祖温 瑞岩宗甫 蔵山自発 深応玄志
大璘義猛 無学直心 高桟祖元 蕘那恵真 弘道祖教 兼松大翁 大鑑完道 天外宗純 無庵宗彦(現住)
Ⅷ-16 湯舟沢 天徳寺