当時の濫觴を尋に是より東南の山の麓恵下と言う所に往昔一宇の道場あり 瑞応寺と号す 年序開闢断絶由緒知れる人なし伽藍は旧跡に今残れり 是往古の檀林なるべし 故に会下と言うべきを誤りて恵下というか ここにおいて又幾年の星霜を積しともしらず此寺を西蓮寺と改号せりとも伝えたり 右瑞応寺の遺跡今下町裏にあり 寺号は田地の字となれり 其後天正四丙子年(一五七六)市岡前長右衛門法名宗誉浄閑開基として 此処に引移し寺号を改め中道山大泉寺と号す 境内東西拾九間南北三拾三間地頭山村氏の除地也(中略)本尊は恵心の御作阿弥陀如来の立像なり(中略)然るに第六世純誉上人丹精を抽て 本堂庫裡共に悉く建立成就し畢ぬ 今の本尊は元禄一七甲申四月一五日尾州名古屋茶屋町 伊藤氏が二親菩提のために寄進したもので慈覚大師の御作になる座像の阿弥陀如来である。左右の二菩薩は平野氏 久木氏の寄進なり(後略)
室町末期、恵下の地に堂宇を定め、その後下町へ移り、天正四年(一五七六)に街道交通の変遷に伴ない当時の集落の中心地本町(泉町)へ移転建立された。文久二年(一八六二)四月業火のため堂宇はすべて灰燼に帰してしまうが、明治六年字大西の地に再建され現在に至る。
開山は江戸増上寺開山西誉聖聡の門、了暁の法孫生蓮社安誉岌往上人親阿努公虎角大和尚である。安誉上人は甲斐の武将武田信玄晴信の知遇を得たとの伝承もある。開基は市岡前長右衛門尉である。
苗木城は明治三年に取り壊されたが、同寺の再建時にもあたり同宇の骨格にその古材が使用されたとも言われる。城門を譲りうけたとの伝承もあり、苗木城の城門を木曽川を渡して運び寺の門にしたといわれる。ちなみに今の庫裡裏東入口にある門は武家門である。
本尊以外の宝物としては、勢至・観音菩薩像、善導大師像と元禄の銘が有る法然上人像の西乾漆像、恵心僧都の筆によると伝わる山越三尊の図の掛軸、延宝七年(一六七九)の銘の有る涅槃曼陀羅などが所蔵されている。
梵鐘は文久二年(一八六二)に焼失しており、現在のものは鐘楼に同じく昭和三五年につくられたものである。
境内には稲荷神社がある。大正の初め伏見稲荷より勧請、町の職人によって建てられたものであるが、現在は寺で初午か二ノ午に祭りがおこなわれている。
また同寺は東濃地方他力浄土念仏の道場として四〇〇年余りの歴史を有するほかに、恵那中部新四国八十八ヶ所のうち第二二番札所でもある。
歴代住職
鏡誉上人 宗誉上人 本誉上人 縁誉上人 純誉上人 浄誉上人
光誉上人 謙誉上人 住誉上人 相誉上人 琳誉上人 性誉上人
法誉上人 博誉上人 諦誉上人 超誉上人(現住)
Ⅷ-21 北野 大泉寺