開基当時は駒場に寺院が建立されたが寛永三年(一六二六)四月現在地に移転し伽藍が建立された。現在も駒場に寺名が字名として残っている。
嘉永四年(一八五一)同寺にて大会中出火し伽藍・寺宝・古文書等一切を焼失する。馬籠大黒屋日記に火災当日の模様が次のように記されている。
嘉永四年二月一二日、中津川手金野松源寺にて大会あり、御坊様達二三〇余人托鉢に御出被成(中略)内八三人大黒屋にてお昼差上候(中略)同年二月二七日、松源寺大会中詳堂飯焚くどより出火、方丈及び観音堂に至るまで不残焼失、その日風立、九ツ頃出火、八ッ時不残焼失
従って詳しい縁起は不明である。現在の本堂・庫裏は安政二年(一八五五)一二世忠山代に再建されたものである。
一三世通峯遷化後、一時無住の時代があり荒廃も甚しかったが、一四世恵山が復興に努めた。一五世恵弘の代になり、昭和二八年位牌堂を建立、同五四年本堂・庫裏を修復した。
境内には観音堂・稲荷大明神が祭られている。観音堂は明治三三年に再建された。堂内に祀られている烏枢澁摩明王像は江戸時代中期前の作で、苗木領遠山家の菩提寺雲林寺にあったものだが、廃仏毀釈の際同寺に移された。昭和四六年一〇月二八日に市の文化財に指定された。嘉永四年(一八五一)の大火で焼失した稲荷大明神は、古来福利効益多として多くの信仰を得つづけている。また墓地内には通称「せきばぁ様」と呼び親しまれている古墓がある。咳に病む人に快愈効有りと、煙草を供え祈願する参詣者が多い。
歴代住職
桂嶽祖昌 通山祖円 達宗篲寂 托盤元珠 萬龍宜淵 少山慧林 大岐智益 光源祖周 懶菴智禮 龍瑞智祥
東翁篲顒 忠山宗恕 通峯素融 恵山自選 恵弘大應 東海弘邦(現住)
Ⅷ-25 手賀野 松源寺