大林寺

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坂本千旦林(千旦林一三四六番地の一四)に在って嶺松山大林寺と称し、曹洞宗に属する。寺伝によれば、天正八年(一五八〇)山梨県長坂町清光寺五世照庵が戦乱を避け当地へ来て坂本八幡神社の宮寺に入り、東の洞に禅洞庵を作り住んだことにはじまる。慶長一三年(一六〇八)徳外もまたこの地へ来て、師の吉州とともに禅洞庵ならびに正家[恵那市長島町]の庵に住む。同一五年徳外は招かれて京都二条宮第に行き教化に努めた。更に亀山・桑名など各地で布教を続け、元和八年(一六二二)当地に帰り禅洞庵を禅洞寺と改めた。寺が手狭になり、寛永一〇年(一六三三)村長林常慶(現大藪桃井家の祖)が開基となり洞垣外の地に禅洞寺改め大林寺を建立し、徳外の手によって開堂演法が行われた。禅洞庵との因縁により照庵を開山として、吉州を二世、徳外は三世とする。なお恵那市武並の瑞現寺・久須見長徳寺・正家円通寺・永田高安寺は共に徳外を開山しており、大林寺の末寺である。因みに本寺清光寺は仁平元年(一一五一)源清光を開基とする寺で、武田一族も帰依し、末寺三〇余か寺を持つ巨刹である。
 元禄一〇年(一六九七)大洪水により被害を受けたため、七世玄定は伽藍の復興を計画し境内地を南西の高台に移して、享保一二年(一七二七)に諸堂が落成した。大正一四年八月落雷により山門・位牌堂を残し諸堂が焼失した。よって現在地に移転、昭和九年までに現在の建物を再建した。
 江戸時代の過去帳には、上金・北野・茶屋坂・本町・駒場・千旦林など中山道に沿う地に檀徒が存在したことが記されている。寺領は地頭山村氏が寄進したものである。
 本尊の聖観世音菩薩は江戸時代の作で、作者は不明である。他に承陽大師木像・開山照庵玄光和尚木像・常済大師木像が所蔵され、また徳外の墨蹟、徳外の画像、元禄年間の筆写による正法眼蔵全巻など所蔵されている。
 境内には北野天満大自在天神・白山妙理大権現・愛宕山大権現が合祀されている。天神は寛永八年(一六三一)九月一八日徳外により、白山は天正八年(一五八〇)五月一八日禅洞庵主照庵により、愛宕は享保三年(一七一八)正月一八日玄定により勧請されたことが棟札に記されている。別に津島神社も祭られ、棟札には文政元年(一八一八)に勧請されたことが記されている。梵鐘は戦時中供出され、現在のものは昭和二四年に再鋳されたものである。
 札所は、恵那中部新四国八十八ヶ所のうち第七五番である。
 天正創建以降の歴代住職
 照庵玄光 吉州玄貞 徳外玄隆 青山玄秀 本然玄性 鏡林玄亀 月堂玄定 賀山玄豊 盛民玄奭 春国玄透
 鼎州玄民 大肯玄輪 花岳玄齢 月江玄桂 壽山玄長 巨海玄舟 月潭文舟 大安祖邦 大法龍禅 大元敬道(現住)

Ⅷ-26 千旦林 大林寺