禅林寺

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阿木飯沼に在って瑞雲山禅林寺と称する。曹洞宗に属し、聖観世音菩薩を本尊とする。
 往古は当地区に菩提寺という所なく槇ヶ根と言う山林のあたりに念仏堂の如き小庵があり、何宗ともなく僧を入置して仏事を行うも年暦明らかでない。元亀・天正の頃(一五七〇~九一)小寺の如くしつらい何宗とも定まりなく(天台宗とも伝えられる)仏事菩提をとむらうこと七〇有余年と伝えられる。
 寛永二年(一六二五)愛知県日進町より丹羽氏信公岩村城へ国替に伴い、菩提寺妙仙寺も岩村へ移る。妙仙寺六世斧峰牛鈯和尚の代である。
 寛永一一年(一六三四)牛鈯和尚を開山とし宝地料五石有余を村除地とし、山林田畑を寺領として、境内一町寺内三〇間四方の一寺を建立した。これが今の禅林寺の創建である。現在田畑の字名にその名を残し当時の寺領がしのばれる。
 元禄一五年(一七〇二)丹羽公が越後国高柳城へ、さらに元文四年(一七三九)美作国(兵庫県加東郡社町山国)へ妙仙寺と共に移られた。それ故、本寺は社町山国、妙仙寺である。日進町に同寺号の寺が現存し、同町周辺に法系末寺が八か寺ある。東濃地区に、妙仙寺末寺として瑞浪市宝林寺・恵那市天長寺、岩村町清楽寺の三か寺があり、禅林寺は本寺が遠隔の地のため、その代務を司っている。
 牛鈯開山後、享保五年(一七二〇)七世祖了和尚、本堂を再建。宝暦三年(一七五三)一一世蔵山和尚、釣鐘・鐘楼門を建立、同七年(一七五七)庫裏再建。明和四年(一七六七)一三世孝智和尚、禅堂を建立、客殿を再建し、七堂伽藍が整って禅林の名四海に伝わる、という。
 天保九年(一八三八)一二月二五日夜半、禅堂より出火、客殿・本堂・庫裏・禅堂・鐘楼・門・廻廊等諸堂を焼失し、鎮守堂・土蔵・灰屋だけが残った。寺の裏に経塚と呼ばれる塚がある。経文を納めたものと言い伝えられている。
 天保一〇年(一八三九)二一世大長和尚の代に庫裏を再建、弘化三年(一八四六)客殿・本堂を再建、嘉永六年(一八五三)迄に全成就して同三月入仏供養を行なった。安政三年(一八五六)二二世禅牛和尚が十六羅漢・釈迦・阿難・迦葉の一九像を建立した。
 明治の初め頃寺子屋を開き地区内の学府として栄えた(飯沼村尋常小学校の前身)。
 宝暦八年(一七五八)恵那郡三十三か所観音霊場第一〇番札所と定められている。
 詠歌 さわりなき迷をはらす禅林寺   田毎の月とここに飯沼
 歴代住職
 斧峯牛鈯 天禅牛運 密雲要芝 愚渓祖鑑 碧雲秀峰 大堂龍梅 達眞祖了 凉山官清 享国田利 規外慈範
 鉄桂蔵山 悦翁巴了 積翁孝智 萬松独峯 逸雄懐俊 白毫東光 東嶺真龍 天山泰倫 鉄舟賢牛 大枝香曇
 寿山大長 大棟禅牛 徳法義門 祖学良温 恭学譲賢 大学秀賢 通外黙天 良潤顕光 大玄尚道 岑沢尚彦(現住)

Ⅷ-28 飯沼 禅林寺