幸いにも雲林寺の幕末期の様子については、雲林寺剛宗和尚(一七代)の弟子で雲林寺中正岳院の住持であり後に飛驒に移った祚田の語るところとして伝えられている。それを紹介すると、
何しろ雲林寺は大名寺で立派で格式がやかましかったという。方丈は九間に一〇間の板葺の建物で、通り仏壇障子欄間などがあり、玄関は二間半の通り廊下で、庫裏(裡)は七間に一三間位のものであり、座敷の中など割合に小間造りで、万一の場合家老の集会などに便利なる様であった。そして板葺の二階造りであった。この庫裏の食堂に当たる分は凡そ四〇畳敷位の大きさで、冬は寒くて堪えられなかったということである。
書院は五間六間で、天井はすべて樟板であった。禅堂は簡素な建物で「禅堂の小屋」と通称しておった位であった。十三仏堂が方丈の西にあり、二間半に三間位の仏堂であった。土蔵は三間に四間の建物、門には高塀が、七、八間位付いていた。
大門通りには杉の大木が十数本あった。雲林寺は、遠山家を大檀那として家中の藩士二百余家を檀家としていた。始終雲衲が七、八人と徒弟が七、八人、合わせて一四、五人の僧侶が常住していたのである。雲林寺には方丈・庫裏・書院・禅堂・十三仏堂・門等があり、いずれも屋根は根葺きで赤壁であったことが「興廃史」によってうかがわれる。なお「苗木明細記」には、大門は雲林寺への入口のところをいうが名称だけで門はなかったとし、寺までの道の両側には杉・檜の大木が並んでいたとしており、また十三仏堂には仏像を安置し、家中の位牌が据置かれたと記している。
寺の運営については、前述した祚田(正岳院の住持)によれば、領主から寺へ八〇石、住持へ二〇石、都合一〇〇石の黒印がつけられ、この外に境内地付近の寺有田から三〇石位の収穫を寺作していたとしている。しかし苗木明細記によると、寺領一四石余が遠山家より寄付されたとし、その内訳は、福岡村で物成米五石四斗余の所を広恵寺付近で下され永代引免になっており、残りの九石余は日比野村郷蔵の内から与えられ、都合一四石余が寺領となっていたとしている。
この二者の記録には違いがあり検討を要するので、ここでは根拠の明白な後者の説に従っておくことにする。
雲林寺の歴代僧侶については、下表の通りである。
雲林寺歴代一覧
雲林寺遺品(福岡町下野・法界寺蔵)
一秀和尚像
厨子(中に位牌)
雲林寺伝法衣