壽昌院はもと、雲林寺大門から那木(地名)の方へ行く道の右手の広い畑の場所、雲林寺の裏山にあたるところにあった。何年頃かはっきりしないが、出火類焼したので雲林寺中へ引き移ったといわれている。現在畑となっているところが壽昌院跡と伝えられている(苗木明細記)。何年頃廃院となったかもわからない。しかし、寛政六年(一七九四)一一月の関梅龍寺全国徒弟寺院の控帳に記載せられ、文政四年(一八二一)八月妙心寺仏殿造替資助金の受領書等より考えれば、この頃までは寺名の記入があり幕末近くまで少くとも寺名が存在したことがわかる(興廃史)。この間並びにその後の消息については、今後関係諸史料の開発によって明らかにしていきたい。
雲林寺境内図(想定)
(明治維新に於ける[美濃国苗木藩雲林寺一派]寺院興廃史-森牧閒書 福岡下野・法界寺蔵)
この壽昌院の創建については、遠山氏二代秀友の室壽昌院殿桂室珠芳大姉のために建てられたものといわれている。そして、一秀和尚の隠棲せられた所とされている。