佛好寺

1645 ~ 1646 / 1729ページ
苗木新谷に在り遠山氏三代友貞の室(妻)のため没後建立した寺であり、法華宗で正中山佛好寺と称した。友貞の奥室は、久世大和守広之(老中職寛文三年(一六六三)~延宝七年(一六七九))の息女で、寛文六年(一六六六)正月二〇日死去し、正中院殿日好大姉(又は仏寺殿ともいう)という。久世家は法華宗であった為、特にこの奥室の位牌所として建立したといわれており、明治三年の廃仏毀釈の折廃寺となった。
 この寺は駿州藤枝(静岡県)にある寺の末寺といわれている。寺の規模等については不明の点が多い。客殿、庫裏、鐘突堂等があったが、廃寺の折に取払われてしまった。現在同寺の昔日の面影を伝えるものには石垣と大門跡、遠山家廟所(御霊舎(おたまや))のみである。
 大門跡は同寺から東南の方向三〇〇mほどのところにあり、ここには現在日蓮上人の五〇〇年忌にあたる安永一〇年(一七八一)日財上人のとき建てられた石碑がある。この碑は廃寺の折取払われて土中に埋められたが、後掘り出し再び建てられたものである。

Ⅷ-36 佛好寺大門の碑

 寺の裏山には遠山家廟所があり正中院日好大姉の墓があるが、遺骸は東京丸山本妙寺久世公菩提寺にあってこの佛好寺は引墓である。
 彿好寺の運営については、合力米(援助)一二石が与えられ重役の証文にて代官より代金にて渡された。しかし外に日比野村定納高の内一二石余の場所が寺付きになっていたが引免にはならず、定納米は同寺から日比野村の郷蔵に納められていた。

Ⅷ-37 佛好寺跡