国学とは日本古来の思想を求めて、古典を研究する学問であるが、国学としての形がととのってきたのは、一八世紀半ば以降である。まず荷田春満(かだのあずままろ)が古語や古典の研究が大切であることを説き、門人の賀茂真淵(かものまぶち)は「萬葉集」などの古典を研究して、古代人の生活や思想にたちもどるべきであることを主張した。ついで本居宣長(もとおりのりなが)は神話の研究には後世の思想を加えないで、そのまゝに信ずることと説いた。型にはまった儒学に対し、国学は新しい学問であるだけに、自由な研究が行われた。批判的な精神も強かったが、一八世紀末から一九世紀半ばに活躍した平田篤胤(ひらたあつたね)になると、神道思想が強まって儒教や仏教を強く排斥するようになった。篤胤以後の国学は日本中心復古主義になり、さらに排他的な攘夷思想にむすびついていった。
真淵・宣長・篤胤にはともに多数の門人がいたが、その多くは神職・庄屋・町役人・富裕町人など、地方の有力者や指導者でこれらの人びとの支持もあって、復古運動が全国的に発展し、復古神道・尊皇攘夷運動と幕末の政治に大きい影響を与えた。直接的には明治維新新政権の神道国教政策に参加したものも多かったが、草莽(そうもう)の志士として実践活動に参加し、国事犯に連座した者も少なくなかった。