中津川宿村へ国学がどのようにして入り、どのような人々の間に広まっていったか。国学の中でも中津川を中心として東濃方面に多くの支持を得たのは平田学派であった。平田門人の中津川での最初の人は、馬島靖庵であった。「平田先生授業門人姓名録」によると「安政六年(一八五九)十月七日美濃国恵那郡中津川宿、岩崎長世紹介 馬島靖庵四十九才平穀生」とある。同年同月間秀矩(はざまひでのり)も入門しているので中津川宿村を中心とした地域の最初の門人達である。従ってこの二人によって中津川に定着し、その後東濃各地へ発展していったと考えられる。
馬島靖庵の入門の紹介者岩崎長世とはどういう人物か。信州伊那地方の平田学の草分けともいえる人物で、篤胤時代天保一〇年(一八三九)に入門し、江戸で学問を修めた。その後、諏訪・飯田と転居した。彼は和歌・能楽を教えながら平田学の普及に努めた。飯田に在住一二年にして文久三年(一八六三)京都へ去った。従って伊那谷南部飯田を中心とした平田学推進の中心的人物であった。
靖庵と長世の出会いは、靖庵が中津川間矩普(のりひろ)の女婿(女は菊子、秀矩の姉)となり、中津川で医者を開業し、安改元年(一八五四)養子に業を譲り、その後、信州伊那郡伴野に移住した頃である。この時代に北原稲雄・松尾多勢子・岩崎長世等と往来し平田門人となる。
従って馬島靖庵の平田学派入門は伊那との関係を無視出来ない。中津川の国学は伊那の影響を受け、そして育ち、やがて両地区がかかわりあって発展していったと考えられる。