馬島靖庵や間秀矩らの積極的な働きかけによって、その後平田門人は中津川宿村において急速に入門者がふえている。安政六年(一八五九)から明治三年(一八七〇)の期間に三五名の多きを数えることができる。
入門情況は文久三年(一八六三)に一〇名、慶応二年(一八六六)に九名、明治二年(一八六九)に五名、と三時期をピークに入門者数が次第に増加している。入門者についてみると中津川宿本陣の市岡殷政(しげまさ)、庄屋肥田通光等宿村の役人をはじめ医者・商人・地主らとなっており、地域の指導的中心的地位の人々である。しかも三五名中姓は一〇余姓で、家族ぐるみ或はその一族であり、入門者たちは何らかの形の縁故関係で結ばれていることも特色の一つである。こうした実態を見るとき、中津川では一部の人びとの間に限られ、多くの人びとに支持されていたとは考えにくい。
しかし中津川宿村周辺部への影響は大きく、同じ尾張領として山村氏の支配を受けた木曽谷の入門者の多くは、間秀矩、肥田通光らの紹介によるものである。中でも木曽福島の士族層が一一名も入門したことについては、尾張徳川家の政治姿勢もあったであろうが、平田門人たち中津川宿の支配層と中津川に在った山村家代官所との関係が深かったことを物語るものでもある。