平田学派の発展に尽した代表的なことは、中津川宿の門人たちが恵まれた財力で、同志たちと平田教学の著作を刊行するという事業に協力し進めていったことである。最初は平田篤胤の「古史伝」の出版刊行の発起であった。この「古史伝」は篤胤のさきの「古史成文」の注釈本ともいうべきもので、平田学の体系的著作という性格の本である。この本の刊行事業の発起人となったのは、馬島靖庵と信州伊那谷の同門の人びとであった。この業務は平田銕胤(篤胤の養子)が中心になり進められ、元治元年(一八六四)に二八巻が完成した。
Ⅸ-1 古史伝(水垣清氏蔵)
この刊行事業の費用の出資者は全国の門人で、それぞれの巻数を負担するという形をとった。中津川宿の同門の人々は二八巻中九巻から一二巻までの四巻で、出資者は市岡殷政、肥田通光、菅井光高、間秀矩、高木定章、勝野正方、河村秀豊、馬島靖庵等であった。
また市岡殷政は下野国(栃木)の門人亀山嘉治と二人で出資し、平田篤胤の著書「鬼神新論」を刊行している。その跋文に「いかで刻本(えりまき)をと思う時しも同門なる美濃国人市岡殷政も同じ心に相譲りて即(やがて)桜木に彫成て普く同志の人々に示すなむ」と亀山嘉治が記している。
この亀山嘉治は下野国安蘇郡船越村の名主で、元治元年(一八六四)水戸藩の天狗党に加わり、小荷駄奉行として武田耕雲齊の一行に従い、中津川宿通過の折には本陣に止宿し、和田峠の戦いで戦死した横田藤三郎の首級を託し去った。その後敦賀で斬罪に処せられた。
二人で四〇両余の費用を出し刊行したことは、熱心な門人であったことは当然だが、当時の世情を考えるとき思い切った決意のあったこともうかがわれる。