苗木領へ平田学派が入り、その発展に大きな役割を果したのは青山景通である。彼が平田派国学にいかなる理由により入門したかは明らかでないが、「平田先生授業門人姓名録」によれば、「嘉永五年(一八五二)十二月十日 美濃国苗木藩 青山稲吉景通 直意」とある如く、景通が苗木領では最初の門人である。
景通は天保一三年(一八四二)二月切米六石・二人扶持で右筆を拝命し、江戸定府(常に江戸に定住)であった。その後栄綱院(一一代領主友壽の奥方)に仕えたが、文久三年(一八六三)に定府を解かれ苗木へ帰住する。従ってこうした事情から考えると、景通の入門は彼が江戸領主邸詰めのときであったことがわかる。
このようにしてみてくると幕末中津川に移入発展した国学も、その当初においては中津川宿と苗木領とはそれぞれ別の経路からで相互関係は持たず、独自の立場で移入されたと考えられる。しかしその後は「戊辰日記」等により門人たちの親密な交流のあったことはわかる。
青山景通は生来学者肌の人であったといわれる。従って学問に対する造詣も深く、平田門下に入ってからは平田学に徹底しその高弟となった。またその子直道も文久三年(一八六三)に入門している。
この平田学派の学風は王政復古・復古神道の確立と、祭政一致の国体観をめざすものであったから、新政府と方向を同じくしたこと、国学を通しての新政府内の高官との知りあいが、苗木領と政府との関係を円滑にしたこと等が、彼の政治的地位を高め、彼の思想が領政に大きい影響を与え また平田門人が急増するのも、こうした事情によるものと考えることができる。