領内平田学派の実態

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今苗木領内における年次別平田門人の情況を見ると、Ⅸ-2表のようになる。

Ⅸ-2 苗木領内平田門人の年次別入門者数(「探古史談」による)

 嘉永五年(一八五二)以降明治四年(一八七一)までに苗木領内で総数一七四名を数えることができる。うち士族層は全体の二〇%を占めている。明治元年(一八六八)以前は士族、苗木城を中心とした近村苗木・福岡に限られ、特に明治以降の急増が注目される。文久三年(一八六三)頃の入門の多いことは、景通が帰苗した年でもあり、彼の紹介による入門者が多いことなどから積極的な働きかけのあった結果と考えられる。明治以降の急増は平田国学が藩政の支柱となったこと、さらに明治三年(一八七〇)の激増は藩主友禄の入門、つゞいて藩政を担っていた権大参事・主弁事等の重職の入門である。こうしたことによって国学がその立場をより強固なものになっていった。
 苗木藩における平田学派の支持層は、旧恵那郡地内の五六名についてみる限りでは、武士階級が圧倒的に多く、ついで地主層、村役人、神官、医師の順になっており、中津川における商人層の支持とは違った特色をもっている。

Ⅸ-3 苗木領内平田門人職業別グラフ
[「近世東美濃における平田学派の社会的考察」鈴木時男"平田門人の職業別分布表"より作成]