元治元年(一八六四)三月、藤田小四郎、水戸町奉行の田丸稲之右衛門が首謀者となり、水戸の義士を募って筑波山に挙兵した。これを天狗党という。天狗党とはもともと上層部に対抗した不平下士層の集団に名づけられたものであった。彼等一行は日光東照宮に戦勝を祈り、再び領内にもどったが領内から敵対の目でみられ、将軍家に弓引く者とされ、水戸から那珂湊(なかみなと)に走った。この時の首領には武田耕雲齋をあおいだ。最初の筑波挙兵の趣旨が領内抗争で故意にねじ曲げられた彼らは、尊攘の真意の外、他意なきことを当時京都に滞在中の一橋慶喜(前水戸領主徳川斉昭(なりあき)の子)に訴えようとして、一〇月二四日八百余名京都をめざし西上の途についた。
水戸浪士 熊谷三郎の墓
湊を出発して大小何回かの戦闘を交え、一一月二〇日松本領と高島領との連合軍と和田峠で対決した。激戦の末、連合軍を退走させ下諏訪に至り露営した。これが所謂「和田峠砥澤口合戦」である。その後福島関所のある木曽路を避けて、伊那路を通って南下した。
彼等は伊郡谷の平田学派の同志をたよって、軍資金等を調達しながら進み、飯田城下を迂回し間道づたいに清内路越えで馬籠から中津川へ向った。
一一月二五日駒場(信濃)泊りで、清内路から妻籠宿を通り二六日には馬籠宿に達し、ここで手勢を二つに分け、一つは馬籠宿で他は落合宿に泊った。そして二七日には中津川宿を通り大井宿へと中山道を進んだ。