水戸浪士の一行の様相を伝える生々しいものの資料の一つに「大黒屋日記」(藤村全集第十五巻)がある。
「十一月二十六日 雨降り いよいよ浪人衆飯田辺まで参り、昨二十五日清内路泊りにて俄に当宿(馬籠)泊触到来 大騒動に相成り 在方へ逃去り候ものも有之、家内諸道具<諸色>土蔵へ入れ 裏木戸まで用心いたし 大切の帳面、腰物などは拙家(大黒屋)にては長持へ入れ 青野(地名)久次郎方まで持運させ 用心第一番に為致候 本家は勿論隠居まで御用宿にて同勢二十一人 御泊り引受け宿いたし候
浪人衆出(いで)たちは残らず鎧兜・騎馬にて 中には陣羽織着用之人も有之候 ×(?)[烏帽]子の仁(人)も有之、いろいろさまざまの姿にて まことに恐ろしき事に御座候 しかしお目附と申す御方には至極人宜敷 穏かに御座候 中には人気悪敷ねだりがましき事も有之 旅籠銭は一人に前弁当用意二百五〇文お拂ひ被成候 人数凡そ二千人 及馬は乗馬・荷付馬共に凡そ四百疋程と申事に候 松本・諏訪合戦 和田峠にて有之 松本家老 水野新左衛門と申人討死 其他多人数殺され 其上陣太鼓 具足 大筒抔も 浪士方へとられ候由 浪人衆よりお咄有之候、諏訪も同様の由
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飯田みのぜ茶椀屋善助と申す仁 横浜交易にて一万両之利分有之候事聞出し 右善助親召取り 当宿へ縄かけ引参り拙家に泊り 金子ねだり とうとう三百両出し親父の命助かり 親類並に取扱の者共六人参り居候処 事済に相成り二十七日朝出立被致候 道々悪党の趣 中々書き盡せず候間あらましのところ相記シ申候」「十一月二十七日-天キに相成 浪人出立 中に土佐の浪人一人交り居候処 是は余程悪黨者につき 仲間中にて三五沢(落合)まで召連れ此所にて首切申候 逃込候百姓家へは手当として金一両家内へくれ候由噂有之候 併中津川辺にては十八屋 〓両人の者を落合へ呼出し 金子二百両無心有之候に付 宿方へ引取相談の上 交易仲間のものにて割符いたし 差出候趣 茂七参り承り申候其他種々咄(はなし)有之候 大津屋・大坂屋の咄もとりどりに承り候処 何事も無之 蔦のや方商ひ<狂人>衣裳陣羽織並諸類[諸古手類]賣拂候咄も有之候 同日大井泊り
十一月二十八日-天キ 公儀衆 広瀬村泊りにて浪人跡追手御通行 当宿お昼にて中津川泊り不残陣立 剣付鉄砲一丁ヅヾ用意 凡千人余之人数に相見え申候 追て此節御通行と申事にて書記出来不申あらまし書記ス」
原文のまゝで解説の必要もないが要約すると、水戸浪士の到来は地元に恐怖を与え荷物を土蔵にしまいこんだり、他人の家へあずけてるという狼狽ぶりがわかるし、身なりも実戦さながらの有様で「まことに恐ろしき事に御座候」とあるよう情況が彷彿としてくる。宿泊した浪士たちが戦の自慢話をしたり、部隊の規模についても大げさな話をしていることにも愛想があっておもしろい。しかし地元民に恐怖を抱かせたのは後半の部分にある資金調達の強引さと、一部心ない者の悪行である。このため同志によって三五沢で処刑されたり資金調達でねらわれた中津川の生糸交易者たちが二〇〇両を差し出していることである。そして警備するような形で追手が一日おくれで尾行していることである。
狂人>諸色>