水戸浪士の通行は、その通行周辺の領内にいろいろと影響を与えた。苗木領では中津川の報せが入ると早速警備が固められた。その状況については「楠日記」(御家請下書・古田孫六写立教大学蔵所収)が詳しく伝えるのでこれによってみる。
元治元年(一八六四)一一月二六日の項に水戸浪士通行につき苗木領では中津川通行の報せがはいると、御目付から総出仕の御達があり出仕すると役所より指名で次のような指示があった。
上地渡船場へは、武頭福田忠左衛門、給人鈴木金蔵・中原猶之進、中小姓安田太左衛門・青山佐次郎、徒士藤田三治・足軽小頭曽我徳三郎、その他足軽二〇人、猟師三〇人、同勢五七人、二七日朝六ツ時(午前六時)出張
瀬戸村へは、徒士目付岩井矢次郎兵衛。坂下へは、徒士目付助塚本直三。滝坂へは、徒士目付青山鋋次郎を二七日早朝出張を命じた。
いでたちとしては火事羽織着用するようにとのことであり、ない者は割羽織着用の事。残りの士族は同じ出立ちで二七日六ッ時(六時)城をかためる。夜中城の内外、町方、無提灯にて出歩かないようにとの目付からの達しがでた。
二七日は諸士一同火事羽織にて御城を固めた。上地渡船場へ出る者たちは上地御門番の所へ集り、その外大門、風吹門、風呂屋門、上町門へ下目付二人が出て夜も張切りで番をした。夜九ッ時(十二時)頃用達らの献上した酒が皆に振舞われた。
夜九ッ時(十二時)目付より水戸浪士は、暮合頃までに中津川を出発し大井宿泊りで通過したので、今夜は引取り明二八日は平服にて城を固めるようにとの御達しがあった。上地渡船場へ出張した人びとは夜五ッ時(八時)頃帰城した。
二八日諸士は平服で出城し城を固めた。大井宿へ浪士の動向を把握するため出した者から、今朝残らず出発したとのことで一統引取るよう御達しが出た。
三日間の動きであるが苗木城の緊張した模様がよくわかる。