岩村領の対応については、飯沼村庄屋の記録によると、水戸浪士たちが飯田に着いた頃より対策が考えられた。心配は上村口の方へ来るか、清内路を通るか分からなかったので、岩村では一一月二五日に東野村(恵那市)石仏を固め、二六日には上村固めをした処、妻籠より来るということになったので石仏を固めたのが二七日の朝であった。岩村領では元治元年(一八六四)は大坂御加番で人数も少なく心配もあり混乱した。
陣は凡二〇間幕を打張り、大砲二挺。大将分松岡勝之助(御勝手御用人物頭兼)、大野源兵衛(大目付)、渡辺左次馬(同断)、其外侍分三〇人、足軽迄に都合一〇〇人程、其外村々の猟師残らず郷夫まで約六〇〇人。飯沼村からは猟師二人、郷夫九人、組頭二人が出張した。惣人数六〇〇人を一〇〇人ずつ一組にして、花無山と保古山両平に鉄砲、竹鎗にて二七日朝より二八日朝迄張番をした。岩村御用達や町役人らは東野村へ出て食料(にぎり飯)を送った。
一方浪士は凡一〇〇〇人程、二七日大井泊り、甲胄又は鎧だけ又は兜のみの者も中にはあった。大将分は甲胄にて陣羽織を着て強馬にて旗さし物美しく、二八日五ッ(八時)頃大井を出立した。
落合宿にては侍分浪人一人乱法という理由で手討ちにされ中津川では大将分一人、是は和田峠で傷つき道中相果て、首を同宿に埋めてきた。
大井宿 長石塔で一人乱法の者を手討ちにし埋めた。これは身分の低い者であった。飯沼村の作右衛門という者が、石仏御固めより抜け出て、大井へ浪士を見にいった所、作右衛門の村袖印を浪士に見付けられ捕えられ、大垣か彦根の廻し者であろうと疑われ、槙ケ根までつれていかれたが、段々吟味され田舎の百姓に相違ないということになり、ようやく放され帰村した。本当に危い命が助かったと記されている。水戸浪士通行に際して、通路周辺の諸領主は、それなりにその対策に苦慮したことが窺われる。