国学者達の役割

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水戸浪士の通行に際して、国学者の果した役割は大きい。浪士たちの通行には、国学者たちが陰ながら尽力し、またこうした人びとの厚意も期待しながら通路が選ばれたと考えられる。
 水戸浪士たちの動静の中で、国学者たちの果した役割は、一方では幕府からの嫌疑も配慮しながらも、通過にかかわっての諸斡旋や軍資金の援助であった。
 浪士の一行が飯田に入ると、中津川の国学者市岡殷政・馬島靖庵・間秀矩三名宛に飯田の松尾誠哉(女流勤王家松尾多勢子の長男)から一通の書状が届いた。その中には「尚々いゝ田(飯田)者大動揺難尽筆紙尤(もっとも)一同無事」ではじまり、
今二四日駒場陣営屯申候 然処小生儀 今夜藤田小四郎殿得拝唔 八月十八日已来漢東義挙逐一拝承 実ニ愉快と申もあまり有事ニ御座候 いゝ田ニ而も防禦厳重之処にわかにかわり…城下ヘハ入不申候、先穏(おだやか)ニ成申候 此隊伍中先生門下亀山勇右衛門 横田藤四郎両人有之候、御同人之御孫者諏訪役ニ而打死 をしき事ニ奉存候 一(略)一 駒場駅より平谷岩村へ御出陣之模様之処、御地之時情追々申上、旦尾江等聊(いささか)御懸念無之ニもあらず、右ニ付にわかに木蘇路御通行之趣 併(しかしながら)明朝有模様かわり候哉(や)難計候 いづれニも、   (廿六日)御地どまりと可相成候 御動揺被成間敷 くれぐれ此段申上候 一(略)一 上京との思召云処 御地ニ而京摂之時情等と御探索之御内慮可有之 程よく御周施奉願候…以下(略)…[傍点筆者]
 とあり、美濃路には有力な平田学派の士が散在しており 援助の手をさしのべるであろうからということで、清内路を選んだと思われる。更に行先の周旋についても依頼していることがうかがわれる。
 また一通、軍資金調達にかゝわると思われる書簡がある。
 
 座光寺村八右衛門儀ニ一筆申上候、此間飯田ニ而御売物代金相掛さし上可申候之処 山中至而都合不宣 六百五十両ハ正金三百五十両ハ為替手形ニ而持参相成候 乍去右手形ハ慥なる事ニ付 於京都いづ方へなりとも御指図之方へ為替とり組 急度御間ニ合せ可申候 万一差支等有之候ハバ 私共立入いさゝか不都合無之様取計可申候 尤八右衛門儀者貴店へ数年御懇意之者ニ付兼而気性御案内ニ候間、小野屋竹衛門殿若御承知ニも候ハバ 御店より御取替置可被下候 私共三人より急度御勘定可仕候 為念如此御座候不一
   十一月廿九日
              半兵衛事改 〓 屋 秀吉
                    田丸屋光兵衛
  横田屋藤四郎様           市岡屋土衛門
  亀山屋勇右衛門様
           御店中様
 
 これは間秀矩の自筆の書簡で、秀矩、肥田通光、市岡殷政の連名(変名)で水戸浪士横田藤四郎、亀山嘉治(変名)に宛てたもので商取引のようにみせかけているが、内容的には軍資金調達であることは明らかである。文中八右衛門とは北原稲雄のことである。用件は現金六五〇両のほか、京都で現金化できる為替手形として更に三五〇両を、合せて一〇〇〇両を差し出すということである。飯田では三〇〇〇両を調達していること等ともあわせ考えると、莫大な資金が用意されていったことが考えられる。
 国学者の多い伊那、東濃は、水戸浪士達にとっては比較的心休まったことであろう。しかし京都までの道程は物心両面にわたりかなり遠い道のりであった。