大井宿以後については、二八日御嵩宿泊。二九日太田宿から鵜沼宿。三〇日間道を芥見へ向かい天王に抜け一泊。一二月一日糸貫川を渡って揖斐まで。二日進路を北に転じ谷汲街道を美濃から越前に向かい金原を通り日当。四日山道をたどり長嶺に抜け大河原に一泊。五日国界蠅帽子峠の積雪に悩まされ黒当戸の雪中に野営。六日笹俣峠から木本村へ。七日法慶寺に宿泊。一〇日北陸道の今庄宿。一一日木ノ芽峠を越え新保宿、一方では一〇日には加賀領の永原甚七郎が葉原で備えた。一二日には永原の陣へ使者を立て慶喜に嘆願のためであるので無事の通行を申し入れた。しかし慶喜からは一七日を期しての総攻撃の命であった。このことは一六日浪士達にも伝えられた。論は二つに分かれたが結局投降に傾いた。首領武田耕雲齋は降伏書を永原のもとに送り、八二三人ことごとく軍門に下った。延々二〇〇余里の難行は終ったが余りにも無駄な辛苦であった。
二一日正式に収容され、敦賀に送られ、加賀に引き渡された。乗馬五二、駄馬四〇、大砲一二、小銃三八八、火薬五三貫、鉛弾丸四一貫、火繩四五把、大小八一一、槍二七五、薙刀二一…その他であった。
軍装をとかれた浪士達は、三つの寺に分けられて収容され十分な保護を受けた。
二九日には幕府方に引き渡され、鰊小屋に収容され処遇もみじめであった。二月中下旬にかけて、三五二人斬罪、遠島一三七人、追放一八七人、水戸領渡し一三〇人、その処分は酷刑であった。しかも武田耕雲齋は家族までも悉く斬首されるという惨劇であった。