赤報隊とは相楽総三らの率いた戦闘隊で、東征軍の東へ向って進むにあたって、露払いとしての鎮撫工作を目的としたらしいが、結末はにせ官軍として処刑された。
この間の事情については、西郷吉之助が相楽総三に、綾小路・滋野井の二人の公卿が京都を脱出し、近江で東征軍の先鋒隊を結成することになっているので、それに加わって働いてくれという事であったらしい。そこで、相楽らは近江へ行き戦闘隊としての赤報隊を結成した。隊士は百姓出身者が非常に多かったといわれている。
その後赤報隊は東へ進みながら、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府軍が、関東をさして落ちのびるのを待ちかまえて、武器・食糧を没収し、食糧は地元の窮民に施したりした。また彼等は年貢半減の高札をたて、庶民が安心して生産に励むように訴えた。さらに沿道諸領主と交渉し新政府に忠誠を誓わせ、武器・金穀を献納させた。
その後間もなく、情勢の変化を見通した京都方は、最初の方針を変更して、綾小路・滋野井両卿に対して、これ以上の前進を禁止し、京都へ帰るよう命じた。そこで赤報隊のうち相楽のひきいる一隊は、東海道を進もうとする綾小路卿の一隊と別れ、中山道を進んだ。
この頃、赤報隊はにせ官軍で略奪や暴行をしているという噂がたった。これは故意に流されたものだともいわれている。赤報隊としては身に覚えのないことであると、京都まで使者を出し弁明したが効果はなかった。
遂に、二月一〇日赤報隊をとりおさえよという命令が、岩倉具定(具視の子)を総督とする東山道総督府から信濃諸領主に発せられた。そこで信濃の諸領主は赤報隊士を捕えた。相楽総三らは東山道総督府に呼び出されて捕縛され、三月三日相楽らは処刑された。
長谷川伸はその著「相楽総三とその同志」の中で「相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のものと死刑に処された関東勤王浪士と、その同志であり又は同志であったことのある人々の為に、十有三年間、乏しき力を不断に注いでここまで漕ぎつけた此の一冊を『紙の記念碑』といひ、『筆の香華』と私はいっている」とし、作品の随所に作者のこの作品に注いだ熱意が汲みとれる。そして「歴史の流れに押しつぶされ、あるいは意識的に下積みにされた人々を堀り起し、その事蹟を顕彰するのが、紙碑の目的であった」とし相楽らの功績を高く評価している。