「相楽総三とその同志」より

1673 ~ 1674 / 1729ページ
この書こそ、長谷川伸が数多くの資料を長い時間かけて、丹念に調べまとめられた一書で、内容そのものは史実そのまゝといっても過言ではない。この書の中にある中津川とのかかわりの部分を紹介し赤報隊の動きをもう少し浮彫りにしたい。
 その一つは赤報隊の幹部の中に恵那出身の国学者佐藤清臣(昌信・倭文雄(しずお)ともいい、変名神道三郎。大垣の出身、二〇才の時脱藩し、三〇才前後大井武並神社の神主三浦朝穂の娘清見の夫となり、三浦秀波(ほなみ)といい、各地を流転しながら活動)がおり、その入隊・活動について同書中「神道三郎」の項で
 「碓水峠で二月十七日、行方知れずになった神道三郎に筆を向ける。神道三郎は六尺近い大男で『絵にかいた真田幸村』という評がある。この人が赤報隊にはいったのは、京都か、美濃の中津川宿か、それとも他のところでか明確でない。どうも中津川宿へ、東山道進軍の赤報隊が泊ったときあたりではないかと思う。…(その理由として、赤報隊は二月一日大湫宿を発って中津川に向う途中、相楽は大井宿本陣林茂右衛門方で昼食をとるが、この時、林・相楽とも親しい神道三郎の名がないこと)、神道三郎がこのとき居なかったとすると、中津川で相楽に会ったのではないかと思う」
 その二つめは、赤報隊士の中に苗木出身の小川市左衛門(「雪冤録」(木村亀太郎)や「赤報隊資料」(長谷川伸)筆者手記にその人名がなく「松廼落葉」(宮阪正勝「相楽関係史科」)のみにある。一見して誤謬が眼につくのだが、しかしそれ以外ないのだから、一応のところ洗った上で掲げるとしている)なるものがいるが、その出生・参加の時期については不明である。「御休泊留記」の中に、「…平田門人江談じ方御座候而御呼寄、志之者御供可仕様御談じニ候…」とあるように、恐らく同志の誘引に骨折っているのでこうした関係で参加したものと思われる。