二月二日早朝中津川宿を発った赤報隊の夫役については、まず二月一日馬籠宿から湯舟沢村と山口村両村に人足が割当てられた。湯舟沢村へは八三人(本人足七八人、才領四人、小遣一人)余りにも多人数のため、総代をもって馬籠宿へ減員の交渉に出た。宿役人も困ったが上の権力も借りてこのままおしきろうとし、そして二月二日になって再度次の様な覚書が村役人宛届けられた。
覚
一 人足 八拾人
是ハ今二日夕、妻籠宿小畑へ罷出 清内路迠御荷物持送り可申候
右者
綾小路様御先隊御通行ニ付 人足割符被仰付候者 格別之御通行ニ付 慮外不調法等無之様 人足共江堅申付 壱人も無相違證人差添罷出 相勤可申候 仍而(よって)此段申入候 以上
二月二日 加藤順助
湯舟沢役人中
遂に、農民たちは引受けざるを得なかった。しかし、荷物の運搬は妻籠橋場までということであったのが、実際には清内路から飯田までということになったので、農民は不服とし橋場から引き揚げてしまった。その夜辻嶋・加藤両役人から村役人へ急飛脚がたてられた。役人は早速出頭、農民の勝手を詫びた。明三日には夫役を出すことを約束してきたが、当日になっても両村の人足は出なかった。役人は時節柄不都合ということで、村役人に取調べ方を命じ事の次第を福島役所へ届けると言い渡した。村役人は詫びたが遂に聞いてもらえず、庄屋と組頭は帰村し、取調べ、福島へ報告することにした。また後日両村の役人は福島への出頭命令が出るはずであるとも言った(島田家・慶応四年書留帳)。
従来では考えられなかったような事が起る背景には、相次ぐ苛酷な負担があったことが考えられるが、赤報隊の行軍そのものにも、いろいろと困難の横たわっていたことが想像される。