「相楽総三とその同志」(長谷川伸著)の冒頭「木村亀太郎泣血記」の中に亀太郎が祖父相楽総三(本名小島四郎将満)の雪冤のために奔走し下諏訪にその石碑を見付けたくだりがあるが、この建碑については中津川の国学の人々も協力していることが市岡家に伝わる文書によってわかる。
これによると明治二年(一八六九)二月伊那県の少属丸山久成(丸山梅夫・金井清八郎後に伊藤九右衛門・相楽の旧盟主・明治生存)が、相楽ら八名が軍律違反によって厳科に処せられたり、金原忠蔵ら四名が無慚な死を遂げたが、従来赤心の者ばかりであるので、同志の哀情忍びがたきによって、墓碑を建てたいので何とか聞き届けて欲しいと、兵部省へ嘆願書を提出した。「願之趣聞届候事」として許可がおりた。ここで多くの人々の出資によって建碑された。中津川宿からは二千匹で名をつらねている者は、市岡殷政・肥田通光・中川成智・間元矩・菅井光高・高木定章・勝野正倫・同二明・菅井直臣・岩井将興・菅井正矩・河村秀豊・辻村正孝ら一二名の多きにのぼっている。