慶応三年(一八六七)一二月、朝廷は王政復古を宣言し、天皇中心の新政府が組織された。しかし会津領など東北の諸領主や旗本らは、薩摩・長州が中心となった新政府に反感をもち、慶応四年(一八六八)正月、鳥羽・伏見で戦いを起した。この戦いに勝利をおさめた政府は、旧幕府領を朝廷の料地とする布告を出すとともに、江戸に向けての武力討幕の軍を進めることにした。一口にいえば幕府領の接収と幕府勢力を一掃するための官軍である。
慶応四年(一八六八)一月二一日東征鎮撫使は、東海・東山・北陸の三道から江戸に向って出発した。鎮撫大総督は有栖川宮熾仁親王であった。東山道鎮撫使の総督は岩倉具定、弟具径を副総督として、ほかに乾退助・宇田栗園(参謀)・香川敬三・清岡公張(補翼)・原保太郎・岩村高俊(監察)などが任命された。行軍には大垣領を先鋒として、尾張・土佐両領の兵が本隊となって東進した。
東山道軍が美濃に入国したのは二月一九日であった。東山道軍の入国は当然ながら美濃国内の領主や一般庶民にも大きな動揺を与えた。