苗木領主一二代友禄(よし)(天保一〇(一八三九)-明治二年(一八六八))は、安政七年(一八六〇)正月一五日奏者番となり、同年六月二六日信濃守に任ぜられた。その翌年文久元年(一八六一)七月一五日加納遠江守と共に若年寄に任ぜられ、そして翌二年閏八月二五日まで勤役し免職となっている。同年三月一五日本多美濃守が御役御免になったので、以後美濃守に復している。若年寄の時代には特に外国御用取扱いをし、洋書取扱調所・蝦夷地等開拓・大小炮鋳立海陸御備向兼御軍制取調等重職についている。
文久三年(一八六三)五月六日大阪表警衛の命をうけ、元治元年(一八六四)五月一二日また信濃守に復し、その年の一〇月一三日再び若年寄に任ぜられ、慶応三年(一八六七)六月一七日までこの間も御勝手掛、外国掛の他ご名代として多くの葬祭の席に出席している。また元治二年(一八六五)三月には将軍家茂にしたがって長州征伐に向って大坂城に入ったが、翌年将軍が没しその遺体のお供をし九月二日海路江戸表に赴いた。慶応三年(一八六七)また美濃守となった。
若年寄を退任した友禄は引続き呉服橋御門番勤役を命ぜられ江戸に滞在した。しかし朝廷からは、同年一一月御所より御用があるので上京するようにとの内達を受ける。苗木領主にとっては若年寄退任直後のことで幕府に対する配慮と勤王の実を示して討幕派となるか、一国をかけての苦しい選択であった。