さきにみたように東山道軍は東山道沿道筋の各領主に「諸藩の情実人心の向背を速かに本陣に罷り出て具陳せよ」の布告を送った。苗木で受けとったのは領主が江戸から帰着する一日前の二月八日であった。この布告には「岩倉大夫殿・岩倉八千麿殿御発向ニ相成候条早々大垣御本陣之可被罷出候事 二月七日」と本布告のあとに添え書きされていた。
この書面を受取ると、家老福田忠左衛門、目付青山稲吉・水野新兵衛の三人が使者となり、領主の口上書一通と内願書二通を持ち総督府に提出した。
口上書は東山道軍の御発向は旅中(帰苗中)に知った、二通の内願書については、家来から差上げるが、内願の趣旨を聞届けていただきたいという趣意のものであった。内願書については、一通は、享保一七年(一七三二)上知された五〇〇石の領地について、不当であるから返還してほしいと嘆願したものである。そして他の一通は、領主遠山友禄の入覲遅延を謝罪するとともに飛驒の警守か領内近辺において相応の御用を願い出たものである。特に入覲遅延の理由については、①本人が病気療養中であること。②栄綱院(友禄の母)の死去による忌中の身であること。③呉服橋勤役を命ぜられたことの三点をあげている。
二月九日に帰苗した領主は、二月一三日家臣一同に直書を下した。その内容の概要は「若年寄を勤めたのでかえって朝廷から嫌疑を受けるのではないかと心配してくれたことはうれしかった。しかしこれは止むを得ず勤めたものであって、勤王遵奉の道を尽し勤王の誠意を貫く存意であること、だから上下あげて勤王の誠意が徹底するよう忠勤をするよう、なお家政も一新する見込みである」などを通達している。変革する明治維新に対する領主友禄の主体的・積極的な姿勢が窺える。
二月一八日、この日友禄は苗木を出立し、二一日美江寺宿に岩倉総督父子と面談勤王の志を伝え、領情を述べた書を参謀の宇田栗園に託して二一日河渡宿庄屋宅に一泊し、二二日出立し中山道筋をさけて関・黒瀬・中野方を経由して二四日帰城した(苗木藩政史研究)。
参謀に託した書の内容とは、苗木は朝廷に二心なきことを明らかにし、「朝命奉載粉骨砕心御奉公」するとして帰順した文書(後述)である。