中津川の商人が、横浜生糸交易に目をつけ従事するようになるのは、「大黒屋日記」によると、安政六年(一八五九)九月頃である。大黒屋日記には、一一月一日の項に「十八屋(中津川)半兵衛 九月二日出立 糸持参 江戸出立に而(て)(略)」とある。
この安政六年(一八五九)は、日本が各国と修好通商条約を結んだ翌年であり、例の安政の大獄の後でもある。こうした早い時期に生糸交易に着目し、政情不安な折、しかも相手は全く知らない異国の人達であり、生糸を馬の背で遠距離を運ぶこと等、中津川商人のたくましい一面をかいまみることができる。この交易の一行には、国学のところで前述した馬島靖庵も商人たちを助けながら交易事情をさぐるという役割で参加していることも興味の深いところである。
彼らは幸いにも、横浜の海岸に新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居するという、貿易商ケウスキィという英国人と渡りをつけることができた。